2023年1月20日(金)

2023年1月20日(金)


『正しく行うこと』

「私はマルティン・ルターのように祈れないだろう……。
きっとマザー・テレサのような精神をもつこともできないだろう。」

同感だ。
私たちは地上のだれか他の人のコピーとなるためでなく、真の自己を実現するために召されている。
トマス・マートンは、「私にとって聖者になるとは、自分自身になることだ」と言った。

ソーシャルワーカーやホスピスのチャプレンとして働く妻の本能的技術に脱帽したのは、かなり前のことだ。
窮境にある人に会うと、私は取材を始める。
けれども妻は、そうした人々に会うと、すぐに彼らの関心事に自らを合わせるのだ。

私たちは祈り方も異なっている。
私は決まった時間に、決まった順番で祈る傾向にあるが、妻は一日を通して断続的に祈る。

神の御前に真実の姿であるようにと求めることのほかに、決まった祈りの方法があるわけではない。

私たちはみな、所属する教会の歴史や神との関わりも違っている。
性格、外見、教育、賜物、弱さの混ざり具合も異なっている。

ロベルタ・ボンディが言うように、「祈っているなら、すでに『正しく祈っている』」のだ。

教会では長年にわたって、祈りの強調点が何度も変わってきた。
初期のクリスチャンたちは、強さと勇気が与えられるようにと、共に祈った。

国教会は荘厳な祈りを作り上げた。
中世には、悔悟とあわれみを求めることが強調された。

後にアンセルムスやクレルヴォーのベルナルドゥスが、神の愛とあわれみを再発見し、聖フランシスコは屈託のない喜びを呼び起こした。

マイスター・エックハルト、クエーカーのジョージ・フオックスが心の中の神秘的静寂を探究する一方、ブラザー・ローレンスは日常の仕事の中で神の臨在を実践した。

ルターは実際のデボーションに向かい、カルヴァンは神の威厳を力説した。
多様性は今日も続く。
私はロシア正教会の大聖堂の中に立ち、古スラブ語で歌われている祈りの言葉などほとんどわからないはずなのに、そこにいる年輩の女性たちがむせび泣いているのを見たことがある。

シカゴでは韓国人の長老派の人たちが、夜通し賛美歌を歌い、大声で祈るのを聞いた。
アフリカ系アメリカ人の教会では、「アーメン!」や「お聞きください、主よ!」と叫び続けるだけで、ほとんど祈りの言葉が聞こえてこないところもある。

日本では、牧師が祈りを促すと、全員が一緒に声に出して祈る。
ドイツにある中国人の家の教会の人たちは、母国の厳格なやり方を引き継ぎ、断食をして三日間祈り続けることもある。

ウクライナの礼拝者たちは立ち上がって祈り、アフリ力の礼拝者たちは踊る。

God Bless You!!


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