2022年9月29日(木)
『私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。』コリント人への手紙第一9章16節
神にふれられるというのは神秘的であり、超自然的な経験であることを私たちは忘れがちである。
もしどこで神からの召命を受け、それについて詳しく説明ができるとするならば、あなたが本当に召命を受けたかどうか私は疑わしく思う。
神の召命とはそのように来るものではなく、もっと超自然的なものであるからだ。
神の召しは、突然の雷鳴のように、あるいはゆっくりと夜が明けていくように訪れるかもしれない。
しかし、どのように来ようとも、その底流には超自然的な要素
がある。
それはことばでは表現できない、常にほのぼのとした幸福感が伴う。
何の前触れもなく、「わたしはあなたを選んだ」という、この予測できない超自然的で驚くべき召命に捕らえられた自覚が突然生まれるのである。
神の召命は、救いや聖化とは何の関係もない。
聖化されたから福音を伝えることに召されるというわけではない。
福音を伝えるという召命は、それと全く違う。
パウロはそれを、自分がどうしてもしなければならないことと説明している。
もしあなたが、神の超自然的で栄えある召命を無視し、自分の人生からそれを除外してきたなら、どこで神を第一とせず、自分の奉仕に対する考えや、自分の性分、能力を優先してきたか、自分の来し方を振り返ってみることだ。
「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」とパウロは言った。
パウロは神の召しを自覚した。
その結果、他のものに自分の力を削がれずにすんだのである。
だれであれ神の召命を受けると、どれほど困難な環境も、問題ではなくなる。
神は、どのような力が加わろうとも、最後にはご自身の目的にかなうようにすべてを整えてくださるからである。
もしあなたが神のご目的に同意さえすれば、生活の中で意識することも、自分にも届かない意識下にあることもすべて、神は完全に調和させてくださるのである。
God Bless You!!
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