2022年9月28日(水)
『あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。……自分の十字架を背負い、そのうえで、わたしに従って来なさい。』マルコの福音書10章21節(英訳)
この若き役人を支配していたのは、完璧な人間になりたい、という熱望であった。
イエス・キリストを見たとき、彼は自分もイエスのようになりたいと思った。
主は弟子を召されるにあたって、その人の聖さを特別に重視されることは一度もなかった。
主が優先されたのは、私が自分自身に対する権利を捨て、主と一つになること、すなわち、他の人間関係は存在しないも同然になることである。
ルカの福音書14章26節「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません」は、救いとも聖化とも関係がない。
無条件でイエス・キリストと一つになることについて語っているのである。
そのように自分を完全に手放してイエスにゆだねる、ということが本当に分かっている人はほとんどいない。
「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた」。
イエスのまなざしは、どのような人や物であれ、それまで後生大事にしてきたものとの訣別を求めている。
イエスはこのようにあなたをご覧になったことがあるだろうか。
このような目で見られれば、人は変えられ、その場から動けなくなる。
神に対して心が柔らかくされているところは、主が目を注がれたところなのである。
しかし、もしあなたが強情で、やられたらやり返すという思いを捨てず、自分のやり方にこだわり、間違っているのは自分より相手のほうだと確信しているなら、あなたの性質の全体が、いまだ主のまなざしによって全く変容されていないということである。
「あなたに欠けていることが一つあります。」
イエス・キリストからご覧になって、「良い」ものは一つしかない。
それは主と一つになり、その妨げになるものが何一つないことである。
「あなたが持っている物をすべて売り払い……。」
普通に生きていくうえで、なくてもすむものは、基本的にことごとく放棄の対象である。
私たちはできるだけ簡素な生活をすべきである。
しかし、それは自分のたましいを救うためではなく人を救うのはイエス・キリストに完全に拠り頼む以外にはない、イエスに従うためである。
「そのうえで、わたしに従って来なさい。」
その道とは、主が歩まれた道のことである。
God Bless You!!
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