2022年8月4日(木)
『さて、イエスは十二人をそばに呼んで、……。』ルカの福音書16章31節
私たちを信頼してくださる神とは、どれほど勇気のある御方なのだろう!
「しかし、よりによって私を選ばれるとは!
私に良いものなど一つもない。私は役立たずだ」とあなたは言う。
しかしそれこそが、神があなたを選ばれた理由なのである。
神に価値のあるものが自分にある、と考えているかぎり、神はあなたを選ぶことができない。
自分のやりたいことが別にあるからである。
しかし神によって、自分の力ではどうにもならない限界に至ると、神はあなたを選んで、「エルサレム」に連れて行かれる。
それはあなたの意見を聞く必要のないご目的が神の側にあり、それを達成するためである。
私たちは、生まれつき才能に恵まれている人が立派なクリスチャンになる、と言ってしまいがちである。
しかし、知恵や素養が問題なのではなく、私たちが貧しいかどうかが問題なのだ。
私たちが携えているものではなく、神が私たちの中に注いでくださったものが問題なのだ。
生まれ持った徳性や、しっかりした性格、知識、経験が問題なのではない。
この件に関しては、それらのどれも全く無用である。
価値あるものはただ一つしかない。
それは従わざるを得ない迫りを神から受けて、神の僚友とされることである。
神と僚友の関係を構成するのは、自らの貧しさ、乏しさを知る人々である。
自分なら神のために有益な働きができると自負する人に対して神ができることは何もない。
クリスチャンである私たちが今ここにいるのは、自分のやりたいことがあるからではない。
私たちは神のみこころの実現を求めて、ここにいるのであって、両者は決して同じではない。
神が何を求めておられるのか、私たちには分からない。
しかし、何が起ころうとも、神との関係はしっかり保っていかなければならない。
何によっても、神との関係が損なわれるようなことが決してあってはならない。
もしそのようなことがあったなら、十分な時間をかけて、正常な状態に戻さなければならない。
キリスト信仰の中心は、私たちがどんな働きをするか、ではなく、私たちが大切にする神との関係であり、その関係から生み出される気風にある。
神が私たちに注意を呼びかけておられるのは、その点だけである。
それこそが 、絶えず攻撃にさらされているものだからである。
God Bless You!!
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