2022年8月20日(土)
『そうすれば、わたしがあなたがたを休ませてあげます。』マタイの福音書11章28節(英訳)
イエス・キリストにあるあなたの生き方を、何かが崩そうとし始めたら、すぐにキリストに助けを求め、安息を揺るがないものにしていただくことだ。
動揺の原因を決して残しておいてはならない。
信仰生活を崩壊させかねない原因は、どんな小さなものでも戦うべき敵であり、我慢する相手ではないからだ。
「主よ、私の中にキリスト意識を確かなものとしてください」と祈ってみよ。
そうすると自意識はいつのまにか消えていき、主がすべてのすべてになってくださる。
自意識がいつまでも残らないように、十分な注意が必要である。
というのは、徐々に自己憐憫が目を覚ますからである。
自己憐憫はサタン的なものである。
「どうも、私の言ったことが理解されなかったようだ。
この件で謝罪するべきは彼らのほうだ。
誤解が起きないように説明を尽くしたのに」と言ってはならない。
他の人のことは放っておいて、主があなたにキリスト意識を与えてくださるように願うことだ。
そうすれば、完全な状態に戻るまで、主があなたを支えてくださる。
完全な生き方とは、子どものような生き方である。
自分にはキリスト意識がある、といって自分を意識しているとすれば、何かが間違っている。
健康を絶えず意識するのは病人であって、健康な人は健康であることをほとんど意識していない。
同様に、神の子どもは神のみこころを意識してはいない。
自分自身がそのまま神のみこころであることが分かっているからである。
神の御旨からごくわずかでも逸脱してしまったと思うと、私たちは大慌てで、「主よ、みこころを教えてください」と問わずにはいられない。
ところが、神の子どもは、神が祈りに答えてくださることが意識できますように、とは決して祈らない。
神がいつも、そして確かに祈りに答えてくださるのを安心して待っているのである。
もし世間一般の方法で、自意識を克服しようとすると、自意は際限なく肥大していく。
イエスは言われた。
「わたしのもとに来なさい。……そうすればあなたがたを休ませてあげよう」と。
つまりキリスト意識こそ自意識を取り去ってくれるものなのである。
イエスが来られるところではどこでも、安息が揺るがないものになる。
自分を全く意識していなかったのに、なすべきことが完了していく、という安息である。
God Bless You!!
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