2022年6月16日(木)
『人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。……わたしはあなたがたを友と呼びました。』ヨハネの福音書15章3節、5節
イエスが私に求めておられるのは、イエスのために死ぬという単純なことではなく、イエスのために日々いのちをなげうつことである。
ペテロが主に「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったのは本気であった。
ペテロの英雄的精神は見上げたものである。
ペテロのような宣言ができないとしたら、むしろ恥ずべきであろう。
私たちの責務が十分に果たされるためには、英雄的精神によるしかない。
しかし主から「わたしのためにいのちも捨てるのですか」と問われた経験があなたにはないだろうか。
神からの高い召しを自覚し、来る日も来る日も自分のいのちをなげうつことと比べれば、一瞬で死ぬことのほうがはるかに容易である。
私たちは光輝ある瞬間のために生を受けたのではない。
むしろ、その瞬間に示されたことにしたがって日々を歩むためである。
イエスのご生涯において、光輝ある瞬間は一回限りであった。
それがあの変貌山での出来事である。
ところが、主はまたしても栄光をお受けにならず、悪霊が支配する平地へ下って行かれたのである。
33年にわたってイエスは御父のみこころを行うためにご自身のいのちをなげうたれた。
「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。
それによって私たちに愛が分かったのです。
ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」とヨハネは言う。
しかし、それは私たちの本来の人間性に反することでもある。
もし私がイエスの友であるなら、イエスのために、周到に、またしくじらないように、自分のいのちをなげうつべきである。
そうするのは難しい。
しかし、難しいことを感謝すべきである。
私たちにとって、救いが容易であったのは、神の支払われた代価がそれだけ大きかったからである。
しかし、自分の生き方をもってその救いを人々に示すとなると難しい。
神は人を救い、その人を聖霊で満たし、こう言われる。
「さあ、救いの実を示すのだ。
わたしに忠実であれ。
たとえ、周囲がことごとく、あなたをわたしに背かせようとしても」と。
イエスは「あなたがたを友と呼びました」と語っておられる。
あなたの偉大な友に忠実であれ。
主の栄誉はひとえにあなたの生き方にかかっている。
God Bless You!!
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