2022年6月15日(水)
『信仰に……を加えなさい。』ペテロの手紙第二、1章5節、7節
《平凡でありきたりの日常》
私たちが「神のご性質にあずかる者」となったからには、「あらゆる熱意を傾けて」聖なる習慣を形成していくべきである、とペテロは言う。
品格と言われるにふさわしいものすべてを私たちは自分の生き方に加えていかなければならない。
自然的にも超自然的にも、生まれながらにして品格を備えている人はいない。
品格は時間をかけて培っていくものだからである。
聖なる習慣も、生まれつきのものではない。
それは、神が私たちに注がれた新しいいのちを基礎に、私たち自身が形成していくべきものである。
だからといって私たちは、脚光を浴びる模範的な存在になるように期待されているわけではなく、神の驚くべき恵みを示す以外は、ごく普通のありきたりの存在であればいいのである。
平凡で、ありきたりの仕事を、不平を言わずにできるかどうかによって、私たちの真価が試される。
私たちの霊的生活における最大の妨げは、目立つ働きをしたがることである。
しかし、「イエスは……手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから……弟子たちの足を洗い……始められた」のであった。
啓示の光も、興奮もなく、あるのは日常の決まりきった仕事と、それに伴う務めだけ、ということは私たちのだれもが経験するところである。
ところがこの平凡な日常こそ、神から来る霊感と次の霊感の橋渡しになっている。
神が常に興奮に満ちた瞬間を与えてくださる、と期待してはならない。
かえって、神の力に拠り頼んでどのようにこのような平凡な日常を過ごすかを身につけよ。
ペテロが言うとおりに「加えて」いくことは容易なことではない。
神が花で飾った心地よいベッドに私たちを乗せて天国まで運んでくださるとは思っていない、と私たちは言う。
ところが、私たちのふるまいは、あたかもそれを期待しているようなものではないか。
私が生活のどんな小さなことにおいても従うためには、その背後に神の恵みという全能の力が働いていることに気づかなければならない。
義務だからする、というのではなく、今の私が置かれている状況を調整してくださっているのは神であると信じて、自分の義務を果たすなら、私が従った瞬間、キリストの贖いのゆえに、何にもたとえがたい神の恵みが私に注がれるのである。
God Bless You!!
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