2022年6月1日(水)
『主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」』エゼキエル書37章3節
罪人が聖徒になることは可能だろうか。
ゆがんだ人生がまっすぐになることは可能だろうか。
それに対する答えは一つしかない。
「神、主よ、あなたがよくご存じです」。
宗教で常識とされることを根拠に、「もう少し聖書を読み、祈りと静思の時を持ちさえすれば、方法が分かると大口をたたいてはならない。
神に信頼するより、行動するほうがずっと易しいのである。
パニック状態になると、神が行動を促しておられるように私たちは錯覚する。
神とともに働く人がこれほどにも少なく、神のために働く人がこれほど多い理由はそこにある。
私たちは神に信頼するより、神のために働くほうを選んでしまうのである。
私にできないことを神はしてくださる、と私は心から信じているのだろうか。
私が他の人に対して絶望する分だけ、私は神が自分にしてくださったことに無自覚なのである。
神の力を知った経験があまりにも素晴らしいために、私はだれに対しても決して絶望することができない、と言えるだろうか。
そもそも、私の中で何か霊的なみわざがなされたことがあるのだろうか。
パニックに陥る分だけ、私の霊的な経験は不足しているのである。
「わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開く」。
神を離れた人間の性質とはどのようなものかを神があなたに示そうとされるとき、神は、あなた自身の中にそれを見させるという方法を取らざるを得ない。
神の恵みなくしては、あなたがどのような存在なのか、神の御霊があなたに示されたなら、もちろん御霊が働いてくださるときに限られることであるが、実際に罪を犯した犯罪者と比べても、あなたのほうが可能性としては何倍も悪質であることに気がついたはずである。
私の「墓」が神の手によって暴かれれば、「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っている」と言わざるを得ない。
このように、神の恵みがなければ人間の本質とはどんなものであるかを、神の御霊は絶えずお示しになっているのである。
God Bless You!!
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