2022年4月1日(金)

2022年4月1日(金)


『キリスト・イエスが、……私たちのために、とりなしていてくださるのです。……御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。』ローマ人への手紙8章34節、27節


私たちがとりなし手となるにあたって、キリストが「いつも生きていて、……とりなしをしておられ」、聖霊が「聖徒たちのためにとりなしてくださる」という以上の根拠が必要だろうか。

御霊の教えを受ける神の子になった者として、私たちは人々との生きた関係を保ちながら、とりなしの働きをしているだろうか。

まずは私たちが置かれている環境を考えてみよう。
家庭、仕事、国、そして私たちのみならず他の人々に関係する現在の危機的状況——それらのストレスで私たちは押し潰されていないだろうか。

その結果、神の御前にとどまることができず、礼拝する時間がなくなっていないだろうか。

そうだとしたら、すべてを一旦停止し、神との活き活きとした交わりの中に入らなければならない。
とりなしの働きを通して人々との関係が保たれ、その延長線上において神が奇跡を起こしてくださるためである。

神のみこころを行いたいという願いが高じて、神の前方に出ることのないように、十分注意をしなければならない。

私たちはありとあらゆる活動に手を出して、神よりも前に出ようとする。
その結果、人々や問題の重みに押し潰され、神を礼拝せず、とりなしもしなくなる。
礼拝の姿勢がないのに、重荷と苦悩が押し寄せて来ると、私たちのたましいは神に対して頑なになり、さらには絶望感に陥ることになる。

神は絶えず、私たちが何の共感も持てない人々を目の前に連れて来られるが、神を礼拝していなければ、私たちはいつしか冷たい態度をとり、なんでこんなことが分からないのか、と言わんばかりに聖句を紹介するか、あるいは通り一遍の助言をしてすませてしまうようになる。

このような薄情なクリスチャンは、私たちの主にどれほどの悲嘆をもたらすことであろう。
私たちは、主と聖霊のとりなしに直接連なっているだろうか。

God Bless You!!


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