2022年2月8日(火)
『平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。』テサロニケ人への手紙第一5章23節
聖化されることを求めて祈るとき、ここに示された基準にかなう者にされる用意が私たちにあるだろうか。
「聖化」ということばを私たちはあまりにも軽く受け流している。
聖化されることに伴う対価を支払う用意が私たちにあるのだろうか。
その対価とは、地上的なことすべてに対する私たちの関心を極限まで狭め、神に対するすべての関心を極限まで広げることである。
聖化とは、神はどうご覧になるか、ということに全神経を集中することである。
私たちのからだやたましい、そして霊のあらゆる能力が神のみこころのためだけに使われるように、しっかり管理することである。
神が私たちを聖別して行おうとしておられる目的が、すべて自分に及ぼされる用意はできているか。
そして、神がそのみわざをなし終えられたら、イエスのように自分自身を神に聖別する用意はできているか。
「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します」
まだこのような聖化の経験をしたことのない人は、神の視点から見た聖化の意味が分かっていないのである。
聖化とは、イエスを支配していた性質に私たちが支配され、イエスと一つにされることである。
それにどれほどの代償が伴っても構わないという覚悟があるだろうか。
私たちの中にあって神に属さない一切のものを、文字どおり対価として支払うのである。
使徒バウロの祈りに込められた勢いと力を、そのまま自分に受けとめる用意があるだろうか。
「主よ、恵みによって救われた罪人にすぎない私を、可能なかぎり聖くしてください」と祈る用意があるだろうか。
ご自身が御父と一つであるように、私たちもイエスと一つとなれますように、とイエスは祈られた。
聖霊が宿っている人かどうかを示す唯一無二のしるしがある。
それは、同じ家族に属する特徴(family likeness)をイエス・キリストと共有しているかどうかであり、キリストに似つかわしくないものと無縁なことである。
そのようにしてくださる聖霊の助けを受けられるように、自分を聖別する用意が私たちにあるだろうか。
God Bless You!!
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