2022年2月13日(日)
『サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。』サムエル記第一3章10節
神からたしかにひとつのことを聞いたからといって、これからも神が言われることには何であれ、私が耳を傾けるという保証にはならない。
神が言われることに対して心も思いも鈍感であれば、私は神を愛してもいないし、敬ってもいないことを神に示している。
私に愛する友がいるなら、その人が何を望んでいるか私は直感的に察知するであろう。
イエスは「あなたがたはわたしの友です」と言われた。
今週のどこかで、私は主のご命令に従わなかったことはないだろうか。
それがイエスのご命令であると気づいていたなら、私は故意に背くことはなかったであろう。
しかし、私たちの大半は神に対して信じられないほど不遜な態度をとっているので、神の御声を聞こうともしない。
これでは、神が私たちに何もお語りにならなかったほうがましである。
私の霊的生活の最終的な目標は、イエス・キリストと一つにされ、御声がいつでも聞こえ、神が常に私に耳を傾けてくださっていると知ることである。
もし私がイエス・キリストと一つなら、心を定めさえすれば神の御声が絶えず聞こえるはずである。
一輪の百合、一本の木、一人の神のしもべから、神からのメッセージが届くこともあるだろう。
それを聞き損なうとしたら、ほかのことに気を取られているからである。
神の御声を聞きたくないからではなく、間違った態度で神と交わっているからである。
私は様々な事柄や、奉仕、また自分の確信に関わることに心血を注いでいる。
そのため、神の語りかけが私の耳に入らないのである。
神の子どもなら、常に「主よ、お話しください。
しもべは聞いております」という態度をとるはずである。
このような静聴の時を育んでいないのであれば、神の御声が聞こえるのは一定の時に限られ、そのほかの時は全く聞こえないことになる。
それは、自分がしなければならないと思う様々な事柄に心を奪われているからである。
これでは神の子どもの生き方とは言えない。
私は今日、神の御声を聞いただろうか。
God Bless You!!
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