2022年12月9日(金)
『キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。』ガラテヤ人への手紙5章24節
生来のいのちそのものが罪というわけではない。
しかし罪とは縁を切り、いかなる罪とも一切の関わりを持たないようにしなければならない。
罪とは地獄に属し、悪魔に属するものだからである。
しかし、神の子として私は天国に属し、神に属しているのだ。
罪を捨てるかどうかではなく、自分自身に対する権利、神に対する生来の反抗心、そして我意を捨てるかどうかが問題なのである。
戦いが展開される場所はまさにそこである。
普通に考えれば高尚で、良いとされるものが実は神の最善から私たちを遠ざけるものなのである。
もって生まれた道徳心が、神への服従を拒んでいることに気づくと、私たちのたましいは最大の激戦地の中心に引き出されることになる。
あさましく、不道徳で誤ったことの是非について議論を交わそうという人はまずいない。
しかし、何が善であるかということになると、必ず議論になる。
「善」は「最善」を憎むものなのである。
人の持つ道徳心のレベルが高くなればなるほど、イエス・キリストに対する反対は激しさを増していく。
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、十字架につけたのです」とあるように、生来のいのちが払うべき代償は一部ではなく、全部である。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、……」とイエスは言われた。
つまり、自分に対する権利を捨てなければならないということであり、またその前に、イエスとはどういう御方であるのかをはっきり理解しなければならないということである。
神への反抗心を葬るのをためらってはならない。
生来のいのちは霊的なものではない。
それを犠牲にしてこそ霊的なものになるのである。
生来的なものを犠牲にする覚悟がなければ、超自然的なものが自然なものになることは決してない。
この点に関して近道などはない。
一人ひとりが、自らの手にそれを成し遂げるための鍵を握っている。
祈れば事がすむという問題ではなく、実際にそうするかどうかが問題なのである。
God Bless You!!
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