2022年12月7日(水)

2022年12月7日(水)


『神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。』コリント人への手紙第二7章10節


罪の自覚を描くものとして、次の讃美歌の一節にまさるものはない。

「私の罪、私の罪なのに、わが救い主よ
何たる悲しみか、それがあなたの上に下るとは」
〔*ジョン・モンセル、1863年〕

罪の自覚に打ちのめされるというのは、人がごく稀にしか経験しないことの一つである。
しかし、それは神を理解する入り口である。

聖霊が来られると、聖霊は人に罪を自覚させる、とイエス・キリストは言われた。
そして聖霊が人の良心を目覚めさせ、神の前に引き出されたとき、人が狼狽するのは、対人関係ではなく神との関係である。

「私はあなたにただあなたの前に罪ある者です」。

罪の自覚、驚くべき罪の赦し、そして聖潔は、互いに織り込まれて一つとなっているので、聖い人とは、結局、罪赦された人以外にはだれもいない。

その人は、神の恵みによって、以前と正反対の生き方をすることにより、自分が罪赦された者であることを、身をもって明らかにするのである。

悔い改めは、「私は罪を犯した」という告白まで常に人を導く。
人が心からそのように告白することほど、神が働かれた確かなしるしはない。
そこにまで至らない「告白」は、単にしくじりをしたという後悔であり、自己嫌悪による反射行動にすぎない。

神の国に入るには、人間の称賛されるべき善性が、悔い改めによって打ち砕かれる痛みを経験しなければならない。

すると、そのような苦悩をもたらした聖霊ご自身が、神の御子を私たちの生活の中で形成し始めてくださるのである。

この新しいいのちは、意識的な悔い改めの後、無意識の聖潔となって現れる。
順序は決してその逆ではない。

キリスト教信仰の根幹をなすのは悔い改めであるが、厳密に言うと、人は自分の好きなときに悔い改めができるわけではない。
悔い改めは神から来る賜物だからである。

昔の清教徒たちは、「涙という賜物」を祈り求めた。
万が一にも悔い改めの価値がわからなくなったら、あなたはまだ罪の暗闇の中にいるのである。

どのようにして悔い改めるか忘れてしまってはいないか、自分自身を吟味せよ。

God Bless You!!


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