2022年12月21日(水)

2022年12月21日(水)


『しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。』コリント人への手紙第一2章12節


贖いが現実そのものなのであり、贖いを通った体験が現実なのではない。
しかし、贖いは私の意識の中を通って初めて意味のあるものになる。

新しく生まれると、神の御霊は私を自分自身と自分の体験の外へ連れ出し、私をイエス・キリストに同一化される。

もし私が自分の体験とともに取り残されたとしたら、その体験とは贖いから生じたものではないことになる。
贖いから生じたものである証拠は、私が常に自分自身の外に連れ出されていることだからである。

つまり、贖いが自分にとって現実となった根拠として、自分の体験にはもはや目もくれることなく、その体験のもととなった贖いに着目するからである。

たとえ私がどんな体験をしたとしても、真理の根源であるイエス・キリストに私をとどめる体験でないなら、何の価値もない。

あなたが、内なる聖霊を自分の中に押しとどめ、自分本位の体験を生み出そうとしようものなら、聖霊はあらゆる制約を突き破って、あなたを歴史上のキリストに連れ戻されることに気づくことだろう。

神を根源としていないのに、その結果として神への「信仰」を生み出す体験は、決して育むべきものではない。
もしそのようなことをすれば、たとえその結果、どんな幻が得られようとも、あなたが体験しているのは反キリスト教的なものである。

イエス・キリストはあなたの体験の主であろうか。
それとも、あなたは自分がキリストより上に立とうとしているだろうか。

主よりも慕わしい体験があなたにあるだろうか。
キリストこそ、あなたの上に立つ主でなければならない。

それだけでなく、キリストが主となっていない、いかなる体験にも目を留めてはならない。

やがて自分自身の体験だけでは満足できない時を神はあなたにもたらす。
するとあなたは心からこう言うことだろう。

「私の体験はどうでもいい。主に信頼していれば間違いない」と。

自分が体験したことを話さないではいられないなら、自分にそうさせてはならない。
手加減は無用である。
信仰そのものに信頼するのは、信仰ではない。
神に信頼する信仰だけが本物の信仰なのである。

God Bless You!!


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