2022年11月5日(土)

2022年11月5日(土)


『むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。』ペテロの手紙第一4章13節


あなたが神に用いられる時が近づくと、本来はしなくてもよかった数多くの苦しい経験を、神はあなたに通らせる。
そのような経験とは、あなたが神の御手の中で役立つように、また他の人の人生に起きていることを理解して、これから遭遇することに決して驚かないようにするためのものである。

「私にあの人への対応は無理だ」とあなたは言う。
なぜ無理なのか。
そうならないように、神から学ぶ機会を神はあなたに十分与えてくださったはずである。

ところが、あなたはそれに見向きもせず、学ぶべきことに気を留めなかった。
そんなことに自分の時間を使うのはばかげている、と思ったからである。

キリストの苦難は、普通の人間が経験する苦難ではなかった。
キリストは「神のみこころにより」苦しまれたのであって、私たちが経験する苦しみと同一視することはできない。

私たちがイエス・キリストとつながって初めて、神が私たちに対応において何を意図しておられたのかを理解することができるのである。

キリスト教文化では、神のご目的を知ることがその大切な一部となっている。
しかし、実際にキリスト教会の歴史を見ると、イエス・キリストの苦難にあずかることを極力避けようとしてきた傾向があることは否めない。

安易な近道を通って、神のご命令を遂行したかのように見せかけることに汲々としてきたのである。
しかし、神の道は常に苦難の道であり、「果てしなく遠い道のり」〔*There's a long, long trail 第一次世界大戦時に流行した歌〕であることを忘れてはならない。

私たちはキリストの苦難にあずかっているだろうか。
私たちが大事にしてきた夢が神によって葬り去られても構わないと思っているだろうか。
自分で決めたことが神によって思いが変えられ、無に帰しても、それを受け入れられるだろうか。

それは必ずしも、神がなぜその道に私たちを導くのか分かっているからではない。
分かるのであれば、私たちは霊的高慢に陥っているのである。

その時点では、神が自分に何を教えようとしておられるのか、私たちは全く気づいていない。
多かれ少なかれ、誤解を重ねながらその経験の中を通っているにすぎない。

しかしやがて、すべてが明るく照らされる地点に至ると、私たちは言うのである。
「神はずっと私を見守ってくださっていたのに、私はそれに気づきもしなかった」と。

God Bless You!!


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