2022年11月27日(日)

2022年11月27日(日)


『この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。』ガラテヤ人への手紙6章14節


キリストの十字架についてじっくり考えるというのは、自分自身の聖潔にこだわって、敬虔な思いに浸るという意味ではない。
イエス・キリストが望まれることを最優先する、ということである。

私たちの主は隠遁者でも禁欲主義者でもなかった。
社会からご自分を切り離すことはなさらなかったが、内面においては常にこの世と一線を画しておられた。

超然としていたわけではないが、別の世界に住んでおられた。
主はごく普通の世界に長く身を置かれたがゆえに、当時の宗教家たちは、主を「大食らいで大酒飲み」と呼んだほどだったが、ご自身の霊的な力の聖別に妨げになるものは、いっさい排除された。

将来のために霊的な力を蓄えようと考え、あえて今は神のために何もしないというのは、聖別のように見えても、聖別とは言えない絶望的な間違いである。

神の御霊は、数限りない人々を罪から解放した。
ところが、人々の生活に自由はなく、充実感もない。

今日、世界中で私たちが目にする信仰生活は、イエス・キリストのご生涯に見られる力強く健全な聖潔とは全く異なっている。

「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と主は祈られた。

私たちはこの世にいるべきであるが、この世に属する者であってはならない。
外面的にはこの世にいても、内面的にこの世とは分離していなければならないのである。

私たちは、霊的な力の聖別を妨げるいかなるものも容認してはならない。
聖別、神への奉仕に自分を献げることは私たちがなすべき分であり、聖化、罪から分離され、聖なる者にされることは神がなしてくださる分なのである。

私たちは、神が望まれること以外には何もしたいと望まない、という決断を自分の意志で下さなければならない。

込み入った問題を解決するには、このように問いかけてみることである。
「これはイエス・キリストが望んでおられることだろうか。
それとも、イエスが望んでおられることと正反対、と御霊が示しておられることであろうか」と。

God Bless You!!


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