2022年11月2日(水)

2022年11月2日(水)


『もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。』ヨハネの福音書14章15節


私たちの主は決して服従を強要されない。
私たちがなすべきことについてははっきり言われるが、決して無理強いはなさらない。

私たちが主に従うとしても、主と一つの心になって従うのでなければ意味がない。
主が弟子のあり方について語られたとき、「もし」という前置きをされたのは、それが理由である。

つまり、望まないのであれば、そうする必要はない。
しかし、「もしわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て……」と。

言い換えれば、「わたしの弟子になりたければ、自分に対してもっている権利を手放しなさい」ということである。

主は私たちの永遠の立場について語っておられるのではなく、私たちが今この場所で主にとって役立つ者となれるか、ということについて語っておられるのである。

主のおことばが非常に厳しく聞こえるのはそのためである。
決してそのことばを、それを語った御方と切り離して解釈してはならない。

主は規則を課しておられるのではない。
ご自分の基準を明確にしておられるのである。

もし私が主と愛の関係にあれば、主が言われることを私は何のためらいもなく行うはずである。
もしためらうなら、主と張り合う何者かを、つまり自分自身を、私が愛しているからにほかならない。

私が従えるようにイエス・キリストが助けてくださることはない。
私が自ら従わなければならないのである。

ところが、イエスに従うやいなや、私は自分に与えられた霊的使命をいつのまにか果たしているのである。

私個人の生活は、些細な出来事でひしめき合っていて、そのどれも取るに足りないものばかりかもしれない。
しかし、一見偶然にしか思えない環境の中でも、イエス・キリストに従っていくなら、それらの出来事が針で空けた穴の一つひとつとなり、そこから神の御顔が見えるようになるのである。

そしてやがては、顔と顔を合わせて神にまみえたとき、私が従った結果、数えきれない人々が祝福を受けたことを発見することになる。

神の贖いによって、一人のたましいが服従に至るなら、そこには必ず結実がもたらされる。
もし私がイエス・キリストに従うなら、神の贖いは私を通して他の人々の人生に流れ込んでいく。
神に従う行為は、全能の神の実在なしには説明がつかないからである。

God Bless You!!


a:14 t:1 y:0