2022年11月17日(木)

2022年11月17日(木)


『わたしは自分にかけて誓う——主のことば——。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、……。」創世記22章16節、17節


アブラハムは、ついに神の本質に触れるところに到達した。
今や神の実在を経験として理解したのである。

「私が目指すは神ご自身、どんな代価も、どんな道もいとわない」。
どんな代価も、どんな道もいとわないというのは、神という目標に至る道は自分で選ばないという意味である。

私に内在する神のご性質に神が呼びかけられたなら、もはや迷っている場合ではない。
即座に従う以外に選択はない。

イエスが「来なさい」と言われたなら、私は行くほかはない。
「手放せ」と言われたら、手放す。

「この件については神に任せよ」と言われたら、私はすっかりお任せする。
どのようなことであれ、このように実行できることこそ、私に神のご性質が内在する証拠なのである。
神ご自身の私に対する啓示は、神のご人格より、むしろ私の人格の影響を受けやすいものである。

「私が凡庸なためなのだ、あなたの道がしばしば凡庸に見えてしまうのは」。

アブラハムがいた場所にまで到達し、私が神の本当のお姿を知るのは、服従の訓練を経た後のことである。
イエス・キリストにあって神と向き合うまでは、決して神の実在を本当に知ったことにならない。

しかし、その時が来たら、「この世がどんなに広くても、あなたしかいません。
あなた以外にはだれひとり」ということが分かるようになる。

神の数々の約束は、私たちが服従によって神のご性質を理解するまでは、何の価値も持たない。
聖書に書かれていることを少しずつ一年間、毎日欠かさず読んだとしても、私たちに何の意味も持たない。

ところが、突然、神が言おうとしておられることが分かる場合がある。
それはある特定の事柄において私たちが神に従ったからなのである。
そして、あっという間に神の本質の扉が開かれる。

「神の約束はことごとく、この方において『はい』となりました。
それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです」。

「はい」というのは、服従から生み出されるものでなければならない。
生活が伴う服従があってこそ、私たちは約束に対して「アーメン」と言うことができる。
そのようにして約束は私たちのものになるのである。

God Bless You!!


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