2022年10月17日(月)

2022年10月17日(月)


『あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。』ヨハネの福音書14章12節


祈りによって「さらに大きなわざ」が私たちにできるようになるわけではない。
祈りそれ自体が、「さらに大きなわざ」なのである。

ところが私たちは、神のわざにかなう自分となれるように、常識を働かせることが祈りの本質だと考える。
しかし、イエス・キリストの教えによれば、祈りとは贖いという奇跡を私にもたらすものであり、他の人にも神の力による贖いという奇跡を生み出すものにほかならない。

その実が残るも残らないも祈りによるが、その祈りは私が苦しんだからではなく、キリストが苦しんでくださったことによるものであることを忘れてはならない。

その祈りに答えていただけるのは「子ども」だけであり、知恵者ではない。

祈ることは戦いであって、あなたがどこにいようとも避けて通ることはできない。
あなたにどのような状況が待ち受けていたとしても、あなたに与えられた任務は祈りである。

「ここでは自分は無用の存在だ」と思ってはならない。
そもそも、その場にあなたが来ていなければ役に立たないのは当然である。

しかし、神があなたをそこに置かれたなら、状況がどうであれ神に向かって絶えず祈るべきである。
「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」とキリストが約束しておられるのだから。

ところが、私たちは心が躍らなければ祈ろうとしない。
それほどの霊的自己中心があるだろうか。
私たちは神の導きに従って労することを避けてはならない。

「だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさいと主は言われる。

地味に労する人の働きに、心が躍ることは何もない。
しかし労する人がいるからこそ、天才的な着想の実現が可能になる。

同様に、地味に労する聖徒がいるからこそ、主の御思いが可能になるのである。
あなたが祈りにおいて労するなら、神の目からはいつも結果が出ている。

覆いがついに取り去られて、あなたが刈り入れたすべての人々のたましいを見るとき、何という驚きが待っていることだろう。
それは、ただあなたがイエス・キリストからの導きを受けることを習慣としていたからである。

God Bless You!!


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