2022年1月16日(日)

2022年1月16日(日)


『私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」』。イザヤ書6章8節


神の召命を話題にしながら、一番大切なことを私たちは忘れていることが多い。
それは召してくださる神がどのような御方かということである。

海からも山からも、また巨大な氷壁からも招きの声が響く(当時、シャクルトン卿の南極探検が大きな関心事となっていた)。

しかし、それが聞こえるのはほんの一握りの人々にすぎない。
招きの声は招く者の性質を反映している。
そのために、同じ性質を持つ者だけに認知されるのである。

神の召命には、私たちの性質ではなく、神のご性質が表れている。

神は、私たちが気づかない間に、召命の糸を私たちの人生に織り込まれたが、それに気づくのは私たちをおいてほかにはいない。
それは、特定の問題に関して直接届けられた、解決の糸口としての神の声である。

したがって、それに関して他の人の意見を求めても無駄である。
そのような神との奥深い関係は、もっぱら私たちと神に限定しておかなければならない。

神の召命とは、私の性質の投影ではない。
私の向き不向きや気質とも無関係である。

自分の資質や適性は何か、とあれこれ考えているかぎり、私に神の召しが聞こえることは決してない。
しかし神との正しい関係に導かれるなら、私の立場はイザヤと同じである。

大きな危機を経験したおかげで、イザヤのたましいは神と合致した。
そして、驚嘆さめやらぬ自分に対する神の召しを記録したのである。

私たちのほとんどは、自分の声以外には何も聞こえていない。
ゆえに神が仰せになることは一言も聞こえていない。
しかし、神の呼びかけが聞こえるところに導かれるなら、そんな私たちも根底から変えられるのである。

God Bless You!!


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