2021年9月13日(月)
『彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。』ヘブル人への手紙10章14節
キリストが罪のために血を流して死なれた、このことによるほかに罪の清めというものはない。
キリストの十字架によって罪は清められた。
私たちが清まったのではなく、清められたのである。
私たちが義人になったのではなく、義人と認められたのである。
そこに、清められることのほんとうの意味がある。
ルターは義認ということを非常に強く説いた。
自分はまったく罪深い者であり、その者がゆるされることに恵みがあり、一生涯罪人である私たちが、ただその罪人のままに救われていくのだ、と説いた。
清められた者がみずから清くなっていくのでなく、清められるとは、自分の犯してきた罪を清めていただくわけであり、それが絶えずなされていくということなのである。
聖化もまったく信仰の賜物であることを忘れてはならない。
信仰はどこまでも約束を信じていくことである。
まだ手に入っていないけれど、すでに手に入ったごとくに生きていくところに信仰がある。
未来形のものを現在形として受け取っていくことである。
私たちはイエス・キリストの血により、はばかることなく聖所に入ることを許され、福音の中に迎えられたわけであるが、そのことは、人間の判断でははっきりしない。
いま信仰生活をしていても、教会へ来ていても、人間だけの信仰でも、信仰の差はわからない。
しかし、差ができる時がある。
それは終末である。
私たちの信仰のほんとうの目標は、きたるべき日、終末である。
そのきたるべき日にはじめて、キリストにつける者とそうでない者との間に大きな相違が起こってくる。
ほんとうに救われ、聖化されるのは、かの日なのである。
かの日こそ「約束のものを受ける」のである。
そのような者が、かの日まで信仰生活を持ち続けるために必要なこととして、ヘブル書の記者は四つのことをすすめている。
一つは、御前に近づくこと。
二つに、信仰告白を堅持すること。
種まきの譬えでも、良い地とは、耐え忍んで受け入れることと書かれている。
種まきの次の日に生えたりすることはない。
信仰告白も、必ずこの世の風霜にあう。
それをじっと忍耐していくのである。
三つに、愛と善行に励むこと。
これは、神が私を愛してくださった恵みにふさわしい生活をするということである。
神を信じていると言うなら、その神が存在するという前提のもとに生活をすることである。
四つに、集会を忠実に守ること。
ヘブル書の記者は、これを守れ、そうすれば、かの日まで持続できるとすすめている。
現在も寸分違わぬすすめである。
友よ、信仰が途中で破船しないよう、声をかけ合おうではないか。
God Bless You!!
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