2021年9月10日(金)
『彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。』ヘブル人への手紙7章25節
ヘブル書の第6章から9章までは、私たち日本人にはたいへんわかりにくい簡所である。
記者が取り組んでいるユダヤ教になじみが薄いからである。
そのユダヤ教とキリスト教の相違をはっきりさせているのが、特にこの章である。
そうしなければ、ユダヤ人たちを論破できないし、キリスト教を彼らに信じさせることができなかったわけである。
律法の世界では、律法を全うしえない者は滅びるよりほかに道はなかった。
しかし、キリストの前では、どんな人でも神に料理され、すばらしい者に変えられていく。
生きているのではなく、生かされているのである。
生かされているのだから、生かしてくださるかたがおられる。
私の持っているものが生かされるのだから、だめだと思っている自分から自由になる。
この自由が福音の世界である。
「彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」の言葉で、私たちは自由にされるのである。
神にはおそすぎることはない。
いつでもその時が備わっている。
「時は満ちた」と言われるが、いつでもそれが満ちた時である。
律法は人間を立てて大祭司にしたが、福音は、永遠に全うされた御子を立てて大祭司とした。
そこに人間から来たものと神から来たものの相違がある。
この信仰の論理を、当時の人々にはっきりさせなければならなかったのである。
今日、私たちがキリスト教を信仰する理由は何であろうか。
仏教など他の宗教との比較の上で選んだのであろうか。
否である。
佐古純一郎氏は「お寺で生まれ、自分はキリスト教の牧師になったけれど、それは決して真宗にくらべてキリスト教がよいと思って入ったのではない。
自分は神から選ばれて牧師になったのだ」と言われた。
宗教は商品購入ではない。
神が、私のような価値のない者を選んでくださったということに始まるのである。
私たちの選択や判断を超えた絶対者の導きにより、キリスト信者になれたのである。
しかし、キリスト教信仰と他の宗教の相違について、私たちははっきりとした確信を持っていなければならない。
なんとなくこちらへ迷い込んできたような行き方ではならない。
その確信とは、「彼によって神に来る人々を、いつも救うことができる」と示されている十字架が中心である。
罪のゆるしである。
しかもそれは理念の世界ではなく、一人の人が死なれることによって私の罪が贖われた、私たちに救いがもたらされたという歴史性、具体性のある事実である。
そこに、キリストによらなければ私は救われない、かつ、キリストにより救われない者はないという確信が与えられるのである。
God Bless You!!
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