2021年8月8日(日)の手紙

2021年8月8日(日)


『主にあって堅く立ちなさい。』ピリピ人への手紙4章1節


パウロはピリピの教会の人たちに向かって、「わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。
わたしの喜びであり、冠である愛する者たちよ」と言っている。

私はこの言葉を読み、自分は日夜、教会の人々を覚えながら、教会員を冠のように思っているだろうかと反省した。
教会の中のいずれの人たちに対しても、同じ思いを持って仕えているだろうかと考え、自分の欠けを示された。

それはやはり自分がこの世からしか人を見ていなかったということである。
しかし、神の側から見ると、どんな人も神は愛しておられ、尊い贖いをもって選ばれたのである。

であれば、その人の値打ちに目を留めていかなければならないということを強く教えられた。

「主にあって堅く立ちなさい」。

イエス・キリストによって、神から尊い贖いを受けたほどに自分は愛されているのだという信仰にかたく立てということである。

白血病を病む13才の女の子を持つある親からの便りに、「これからどれだけ生命があるかわからないわが子を見ながら、親として何もしてやれない。
その苦しみの中で、神はなぜこの子の生命を救ってくださらないのだろうか」と何回も書かれていた。

それを読んで、私は胸の締めつけられる思いがした。

神が愛であるということは、諸事万端うまくいっているときは当然のこととして理解されるが、生活の中で何かの亀裂やつまずきが起きてくると、神は愛であるとは確信を持って言えなくなる。

神に祈ってさえいれば何でも最善にしてくださるのだといっても、そのような状態が一生涯続くものではない。
波が襲ってきて船が沈みそうになっているのに、頼りにするイエスは寝ておられるというようなもどかしさを感じさせられることがたびたびある。

神はほんとうに私を愛してくださっているのだろうかと疑いたくなるときがある。
しかし、信仰とはどんなときであっても、その信仰にかたく立っていくことである。

では、問題があってもなお神は愛であるとどうして言えるのだろうか。
それは、イエス・キリストにおいて言えるのである。

現実がどのように苦しくても、それは神の愛の中で行われている、と信じていくのである。
神は一人子イエス・キリストを私のためにこの世に送り、十字架につけ、私の贖いとしてくださった。

神が愛であることを信じ、神の愛に依り頼み、神の愛ゆえに大胆に生きていくところに、私たちの信仰生活がある。

God Bless You!!


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