2021年8月20日(金)の手紙

2021年8月20日(金)


『兄弟たちよ。わたしたちのために祈ってほしい。』テサロニケ人への手紙第二3章1節


パウロの伝道は血みどろのものであった。
そして、彼の伝道をひと言で言うならば、神が自分を用いてくださった、ということである。

「わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせてくださったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない」と語り、使徒行伝においても「彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいてして下さった……ことなどを、報告した」とあるように、私はこうした、あのようにしたということは、一つも報告していない。

神が自分を用いて、どのようなことをしてくださったかを報告している。
そういう言葉の中に、パウロがいつも神を仰ぎ、神を待ち望み、神と共に伝道していったことがうかがわれるのである。

人間がどんなに綴密な計画を立て、どんなにすばらしい言葉、雄弁をもって臨んだとしても、それは少しも意味がない。

「ともに計れ、しかし、成らない。
言葉を出せ、しかし、行われない。
神がわれわれと共におられるからである」。

神の業として伝道を考えなければ、それはできないことを聖書は語っている。
神の道に私たちが従っていけばよいのであって、これが私たちの信仰である。
神を私たちの道に従えようとしてはいけない。

だから、神がもし寂しいところへ行かれたなら、自分も寂しいところへ行かなければならない。
キリストの僕であるなら、キリストが求められなかったものを、ひそかに求めているようではだめである。
そういうことは理論的にはわかっていても、実際の生活ではなかなかそうでないことが多いのではないか。

神のあとに従っていこうと思えば、自分の弱さを知る。
それは言い訳でも何でもない。
だから、祈りが必要なのだ。

モーセも、わたしは口下手です、他の人にやらせてくださいと言ったが、最後には従っていった。
だからこそモーセは、苦労はあったが、荒野でなければ見ることのできない、生ける神に出会うことができた。

私たちの実際の生活の中でも、キリストは生きておられることがわかるような生活をしなければならない。
人の証しで感心したり、牧師の話を聞いて感動したりするだけであるなら、それは借りものの信仰ではないだろうか。

信じていこうと思えば、次々と疑いも起こってくる。
しかし、神は真実なおかたである。

私たちは何度もつまずき、イエスをどれだけ失望させ、落胆させたかわからない。
それでも主はなお愛してくださり、きょうも私の名を呼んで、私の友となってくださるのである。

God Bless You!!


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