2021年8月17日(火)の手紙

2021年8月17日(火)


『あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。』テサロニケ人への手紙5章5節


主の再臨はいつか、何か前兆があるのかということは、初代の教会にとってずいぶん問題になったことであった。

それに対してパウロは、いまさら「書きおくる必要はない」と言っている。
時期や場合は人間にはわからないと、盗人の例を出し、盗人が今夜来るから戸締まりをするのではなく、いつ来るかわからないからしているのであると説く。

私たちが再臨に備えるのも、いつ来られるかわからないが、主が再び来られるから備えるのである。

主が来られたとき、すばらしいと思われていた人がそうでなかったり、その逆のこともあることだろう。
だから、ほめられても有頂点になることはない。
ごまかしのこの世で、自己に厳しく真実に生きていくのは、再臨信仰に立ったときであろう。

また、あなたはひどい人だ、あなたはまちがっていると、中傷や誤解や非難を受けても、もしそれが神の前に正しいことであれば、それほど恐れる必要はない。

私たちは、なぜ人を恐れるのか。
なぜ、人の言葉に支配されるのか。
それは主が再び来られるときに、神の前にすべてがあらわにされることを信じないからではないだろうか。

もしそのことを徹底的に信じるなら、人がみな非難し、無視しても、私たちは平安が与えられるのである。
そういう点で再臨信仰は、私たちの具体的な生活にも及んでくるのである。

本章で、「昼の者」、「夜の者」「やみの者」と書かれているが、これは、イエスの救いを信じ、それゆえに再臨の時には救われることを信じている者が昼の子であり、夜の者はその反対をさす。

「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである」。

イエスによって救われていないから、いまだ眠りから覚めないのである。
きょう一日ということを考えても、それは神に贖われた一日であり、神によって与えられた一日であるとすれば、その一日を大事にしなければと思う。

自分の欲望や感情に振り回される一日であってはならない。
また、一分一秒たりとも、神を悲しませるようなことのために使ってはならない。

ジョン・ベイリーの祈りの中に、イエスがいっしょに行ってくださらないようなところにきょう行くことがありませんように、イエスにのぞかれて困るようなことを、心の中に描きませんように、という祈りがある。

私たちが一日を振り返ってみるとき、どうであろうか。
家族や周りの人に言った言葉は、イエスに聞かれては困るような言葉ではなかったであろうか。
そうであれば、私たちは昼の子ではないのだ。

God Bless You!!


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