2021年7月9日(金)
『わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。』コリント人への手紙第一15章51節
私たちの最大の敵は死である。
どんなに私たちが努力し、光の園、不夜城を築いたとしても、死は私たちを暗やみに閉じ込めて離さない。
もし、ほんとうに人間の死が解決されるならば、躍り上がるほどの喜びであろう。
どんなに多くのお金をもってしても、知恵を尽くしても、死の問題はどうすることもできない。
ところが、聖書に主イエスの復活が記され、私たちはそれを信じているにもかかわらず、現実は喜びに満たされない。
なぜか心が躍らない。
どうしてなのだろうか。
これに答えるものこそ、この15章なのである。
「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに」とある。
12節から19節は、復活を信じない人々への言葉ではない。
12節で言われるのは、死人の復活があるかないかである。
主の復活の有無が論じられているのではなく、それは当然のこととして受け入れられている。
問題はキリストの復活と私たちとの関係である。
キリストの復活はよそごとで、私と何の関係もないと言っているのはどうしたことか、とパウロは言う。
キリストの復活は、どこまでも私たちとの関わりなしにはありえなかったと告げるのである。
確かにイエスが復活されたからといって、いまの私の生死には関わってこない。
イエスの復活を何回聞いても、私たちは死んでいく。
愛する者が召されるとき、私たちは主にこの親しき者の復活を祈る。
けれども息の切れた死人は、再び息を吹き返さない。
このとき、主の復活は何なのかを疑いたくなるのである。
信仰生活で多くの人がつまずくのは、この点なのではないだろうか。
教会へ来たら、病気はせず、仕事はうまくいくか。
否である。
信仰があろうがなかろうが、失敗するときは失敗し、病気になるときは病気になる。
どうせ同じなら、教会へ行く必要はないと知恵を働かせ、去っていく人もいる。
そんな障害をなくすため、神癒を第一とするクリスチャンたちもいる。
しかし、これは約束手形の割引である。
主の約束があるところに尊いものがあるのに、そこに即効的なものを期待しては安っぽいものになってしまう。
「単なる望みをいだいているだけだとすれば」とはこのことなのである。
キリスト教の希望とは、そんな安っぽいものではない。
復活は、いまだけ見ているのではだめである。
復活を信じていた榎本牧師は死んで生き返った。
そんなことはないのである。
復活を信じても信じなくとも、死んでいく者は死んでいく。
しかし、約束手形にはっきり期日が書かれているように、私たちの初穂のキリストの復活には日付が記されてある。
その日には、キリストに属する者はこの復活の生命にあずかることができる。
なんという幸せ、なんという喜びであろうか。
God Bless You!!
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