2021年7月5日(月)の手紙

2021年7月5日(月)


『わたしを記念するため、このように行いなさい。』コリント人への手紙第一11章24節


第11章では具体的な教会生活、教会の秩序について語られる。
冒頭に「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」とある。

私たちは、「私ではなく、キリストにならってください」となら言えるかもしれない。
「私にならってください」とは、よほどの自信がなければ言うことができないだろう。

しかし、これはどんなに私たちがとぎすまされているかということではなく、私がどんなに弱さを持ち、その中で神の憐れみを真剣に求めているかを見なさいということなのだ。
ゆるしなしに生きえないことを人に示すことなのである。
そして、このような者でも神は生かし、愛しておられることを知らせるのが、私たちの証しなのである。

パウロは赤裸々に自分の弱さを人前で認め、書きあらわした。
だからこそ、「わたしにならえ」と言えたのである。

17節より後半には、当時の教会が守っていた主の晩餐のことが記されている。
これが聖餐式の始まりである。

聖餐式は、パンとぶどう酒をいただくことにより、パンと共にいますキリストの肉、ぶどう酒と共にいますキリストの血にあずかることである。

「わたしを記念するため、このように行いなさい」との主の御言葉は、単に思い出としなさいと言ったものではなく、もっと強い意味がある。

たとえば、一人の人が亡くなると周囲の人々はその遺品を分ける。
亡くなった人の思い出だけではなしに、故人の所有物を自分のものとする。
そのように自分への働きかけが出てくるのが、「記念するため」という意味であり、単に思い起こすだけでなく、それを通して、生きる力、キリストの力にあずかることなのである。

さらに、主がパンを裂かれた夜は過ぎ越しの祭りの夜であった。
これは、イスラエルの人にとって、エジプトからの脱出を記念する祭りである。
奴隷の状態にあった人々を、神が助け出してくださったのである。
そのとき彼らは、パン種の入っていないねり粉をこね鉢に入れたまま、着物に包んで出発したとある。

少しの時間的余裕もなかったのである。
ただ御言葉に従ったのである。
これが過ぎ越しの精神である。

だからこそ、神はモーセを通して、「しるしとし、記念とせよ」と言われた。
この精神を日常生活の中で生かすことである。

詩篇の第21篇に「主はそのくすしきみわざを記念させられた」とある。
私たちが記念するのではない。
主が記念されるのである。
主が心に留められるのである。

同じように聖餐式は、十字架を思い起こすだけではなく、パンとぶどう酒にあずかることにより、私たちに神の愛が働きかけてくださることなのである。

God Bless You!!


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