2021年7月30日(金)の手紙

2021年7月30日(金)


『わたしたちがほめたたえるためである。』エペソ人への手紙1章6節


3節から神への賛美が記されているが、非常に神学的な言葉が使われている。
キリスト教の真髄のようなものが、きらびやかに並べられているとも言える。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し」とある。

聖書を読んでいてだれでも気づくことであるが、聖書は祝福ということに非常に力を入れていて、人々が神から祝福を受けることをどんなに願っているかを感じさせられる。

ある本の中に、祝福とは美しい言葉というよりは、具体的な技術をもってすることであり、最も価値のあるものを渡すことであると書かれていた。
これは私に新しい感銘を与えてくれた。
祝福するとは単なる言葉だけではなくて、自分の大事なものをあげることだと言うのである。

イサクから祝福を受けたヤコブは、父の全財産をもらった。
エサウが、私にも祝福をくださいと言ったが、祝福は一つしかないと父イサクは言った。

祝福とは最もよいものを渡すことである。
だから、神から私たちが祝福を受けるということは、神の最もよいものをいただくことである。
私たちはそれほどまでに神に信頼される値打ちがあるだろうか。

「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」。

私たちがイエス・キリストによって救われることは、神の御旨にかなうことである。
私たちが自分で救いを発見したり、見いだしたりするものではないのだ。

マルコによる福音書第4章に、イエスが弟子を招かれたときに、御心にかなう者を集められたことが記されている。

御心にかなう者というのを、塚本虎二先生は、「この人こそ、これぞと思う人」と訳している。
この人を救わなくては、この人を選ばなくては、この人にこれを与えなくてはと、神は私たちを選び、予定してくださった。

なんとすばらしいことかと思う。

また「神の子たる身分を授けるように」と書いてあるが、本来私たちは神の子ではない。
しかし神の子としての身分が授けられ、そういう待遇を受けるのである。
私たちはそれを感謝して受け、神の愛する御子によって賜った栄光ある恵みをほめたたえるのである。

私たちが選ばれ、救われたのは、神の恵みをほめたたえるため、そしてそのことを人に知らせるためである。
選ばれたことは最終ではなくて、最終のためのものである。
そこに伝道、愛の業が私たちにとって大事であるゆえんがある。

God Bless You!!


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