2021年7月3日(土)の手紙

2021年7月3日(土)


『福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。』コリント人への手紙第一9章23節


第9章は、パウロの使徒職への批判に対する彼の弁明が書かれている。

彼が最初に聖書に登場するのは、キリスト教の迫害者としてである。
当然12使徒の一人でもなく、イエスから伝道をせよと派遣されたのでもないのに、それが伝道をするとはとの批判が生じたのである。

彼は、自分が使徒たる証明について弁明する。
たとえ他の人に対してはそうでなくとも、少なくともコリント教会の信徒に対してはそうなのだと。
ここに、人間パウロのせつせつたる感情が出ている。

彼はさらに、教会の使徒に対する謝礼という、教会員の心の機微にふれた問題を論じる。
彼はその謝礼を受ける権利を放棄した。
キリストの福音の妨げにならぬようにとの意図からであった。
しかし、その権利は神から与えられたものだと、はっきり言うのである。

「主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」。
厳しい言葉である。

近ごろは何事もドライになり、生活は生活、信仰は信仰という考えが多い。
伝道者の生きる道を二元的に信仰と生活とに分けるなら、神の働かれる場があるだろうか。
牧師も信徒も、自分の生活の中に神の働いてくださる余地を作らねばならない。

私たちは、もっと神にすべてをゆだねた生活をしなければ、神を知ることはできない。
パウロの、私たちのために一人子を賜ったほどの神が、これに万物を添えて賜らないことがあろうかとの言葉は、神の愛から現実を見ていったからこそである。

さらに言うなら、神の現実の業を見て、神の愛をより強く感じ取ったからなのである。
この信仰により、彼は伝道者としての道を進んだのだ。

伝道者は御言葉を宣べ伝えるのが任務である。
ということは、自分の全生涯の中で神が存分に働いてくださるように、自分の全生涯を神に提供することが必要ではないだろうか。
そこでの神のお働きが伝道なのである。
自分のきょうの一日を、「神様、あなたが自由にお使いください」とゆだねていくのである。

信徒の生活も同じである。
商売をする人が、これが利益を上げる道であるとわかっていても、もしそれが神の道でないのなら、私はあなたの命じられる道に従いますと言い、私のキャンパスを神に提供するのである。

19節を読むと、パウロの一人一人の魂への愛が伝わってくる。
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった」。

これがほんとうの自由である。

ルターの『キリスト者の自由』の冒頭にある、「何ものにもとらわれず、何ものにも仕えていく自由」はそれとまったく同じものであり、信仰なしには言えない言葉なのである。

God Bless You!!


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