2021年7月29日(木)の手紙

2021年7月29日(木)


『互に重荷を負い合いなさい。』ガラテヤ人への手紙6章2節


パウロは、実際の具体的な手紙においても、あるいは牧会の姿勢においても、何かの問題にふれるたびに、イエスとの関係がはっきりしていないからそういう問題が生まれてきたのであり、そのところがはっきりすれば原因を知ることができると断じる。

そして、信仰をしっかり確立することから、信仰の実として、お互いの教会生活、交わりが生まれてくると言う。

私たちが、人の問題を追及する場合に陥りやすいのは、自分にはまちがいがないと思い込み、自分の欠点や弱点をカムフラージュして、人のことをいろいろ言うことである。

たとえば社会悪とか政治の問題などを追及する場合でも、それでは追及している本人はどうなのかについてはあまり考えない。

資本家の搾取を云々するにも、私たちが資本家になったときには、そういう誘惑や試みに負けて、同じことをしてしまうのではないかという、自分に対する省察を忘れてはいけない。

人を非難したり、恨んだり、裁いたりするときは、自分を見すごしているときだと思わなければならない。

「互に重荷を負い合いなさい。
そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。

キリストは、「わたしのいましめは、これである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と説かれた。

愛し合うとは、重荷を負い合うことである。
互いにという言葉には、落とし穴のようなものがあると思う。
両方が合意しなければ、互いにとはならない。

あの人が愛してくれたら私も愛そうと思うが、あの人が愛さないから私も愛することができない。
それが互いにという言葉の持つ一つの響きである。

しかし相手待ちでは、互いに愛し合うことはできない。
自分が先に愛すること、あえて犠牲になることを引き受けなければならないのである。

しかしながら、いつも重荷を負い、犠牲になるということは、キリストが私にそうしてくださったのだという思いがなければできるものではない。

だからイエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と言われた。
それは、キリストが愛されたような愛を持って愛し合いなさいということではない。
キリストに愛されたその愛に押し出されて愛し合いなさいということである。

したがって、いつもキリストが損をしてくださる、貧乏くじを引いてくださるという、キリストに対する思いなしには、私たちはキリストの律法を全うすることはできない。

たとえ自分の生涯を棒にふるようなことがあっても、キリストがご自分の生涯を棒にふってくださったのだから、私はそれでよいというところにいかなければ、ただ相手を見ていただけでは、互いに愛し合うことはできないのである。

God Bless You!!


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