2021年7月26日(月)の手紙

2021年7月26日(月)


『律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』ガラテヤ人への手紙


「わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。
あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか」。

ガラテヤの教会の人たちの、イエスの十字架を信じる信仰の確信や喜びがゆるんできたのは、聖霊を受けていないからだ、とパウロは言っている。
聖霊の働きがなければ、だれもイエスを主と告白することはできないのである。

聖霊というのは、電灯のようなもので、電灯がともらなければ何も見えない。
イエスがキリストであることは事実なのであるが、見えなければ存在しないのと同じである。

聖霊は、私たちにイエスがキリストであることを示してくれるものである。

私たちの目は、肉の世界のことは見えるが、霊の世界のことは見えない。
具体的な生活の中で私たちに見えるものは限られている。
心などもそうである。
解剖しても見ることはできない。

そのように、イエスの力は私たちの肉の目では見ることができない。
ただ、御霊に照らし出されることによって認めていくことができるのである。

6節から、彼は律法の問題について語る。
怠け者のクリスチャンでも、クリスチャンであれば天国へ行くことができて、一生懸命立派な行いをした人が天国へ行けないというのは、矛盾していると言う人がよくある。

しかし、律法はことごとく行わなければゼロと同じことである。
東京へ行くのに、横浜で降りてしまっては、どこへも行かないで昼寝をしているのと同じなのだ。

自分はあの人より律法を守ったということは問題にならない。
律法の書に書いてあるいっさいのことを守らなければ、律法を守ったことにはならない。
そこに律法を守ることのむずかしさがある。

パウロは、律法は私たちの養育係であるという考えを持っていた。
私たちは、律法から解放されているが、律法と無関係ではない。
律法の奴隷でもない。
律法によって神の御心を示されていくのである。

たとえば、クリスチャン・ホームに育った人の中に、「私は別に悪いことをしていないから、悔い改めた喜びや感激を経験したことがない」と言う人がある。
それは、罪というものを非常に程度の低いところで考えていると思う。

なしたる罪は重いが、なさざる罪はそれほどでもなく、法律にふれる罪は悪いが、道徳に反する罪はそれほどでもない、というのが人間の世界である。

神の前には、律法にもとる生活は罪である。
律法は、神の御旨にかなわない自分を知らせてくれる。
そのことによって私たち自身が、イエス・キリストに救われなければならない者であることを知るのである。

その意味においてまさに、律法は養育係である。

God Bless You!!


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