2021年7月24日(土)の手紙

2021年7月24日(土)


『わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら……。』ガラテヤ人への手紙1章8節


ガラテヤの教会は、パウロによって伝道された教会であったが、彼が去って後、パウロと信仰理解において甚だ違った立場の人たちが来て、パウロの宣べた福音はまちがっているということを言った。

そのことから、ガラテヤの人たちはパウロの宣べ伝えた信仰から離れていった。
その人たちに対してパウロが書いたのが、このガラテヤ人への手紙である。

パウロの信仰とは何か。
それは恩寵のみという信仰であり、エルサレム教会の人たち、いわゆる正統派と称する人たちとは違った福音理解を持っていた。

そこに戦わなければならない理由があった。

パウロの信仰を、中世において再解釈したのがマルチン・ルターである。
彼は宗教改革を行い、プロテスタントとして私たちの新教はできた。

マルチン・ルターは福音を信じる信仰のみと言っているが、これが彼のキリスト教理解である。
パウロは、その恩寵信仰に立って孤軍奪奮闘したのである。

私は以前、福音信仰には成長がないと話したことがある。
そのとき、成長させてくださるのは神であるという言葉が聖書には出てくるではないかと言った人がある。

そのとおりであるが、しかし、私たちが恩寵をどのように受け取っていくかということには相違があると思う。
恩寵に成長などというものがあるだろうか。

たとえば、千年前に信仰を持った人が、二年前に信仰を持った人よりも福音をより理解できているかというと、そんなものではない。
二十年三十年の信仰生活を送って、なお福音を理解していない人も多いし、きょうはじめて教会へ来たのに、聖霊の働きによってはっきりと理解する人もある。

それはちょうど空気のようなもので、吸い込みさえすればよいのである。

みんな同じように神の愛を受けている。
信仰そのものの本質から考えると、信仰は成長するものではない、日々新しく、神から恩寵としていただくものである。

いただくというかぎりにおいては成長というものはない。
神はいつも十分なものを、そのところで与えていてくださるのである。

パウロの書簡は、たいていあいさつ文のあと、あなたがたに感謝するという言葉が出てくる。
ところが、このガラテヤ人への手紙ではただちに叱責の言葉になる。
こんなに早く彼らが福音信仰から離れて律法主義に変わったのが不思議であり、残念でたまらないのである。

「わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである」。

パウロは、むちゃとも思える言葉で、はっきりと自分の意見を語る。
キリスト教徒を迫害した彼は、恵みをもって召されたゆえに、キリストを宣べ伝えずにはおれなかった。
このパウロの恩寵のみという信仰を、私たちも持って歩みたいと思う。

God Bless You!!


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