2021年7月23日(金)の手紙

2021年7月23日(金)


『あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。』コリント人への手紙第二13章5節


コリント人への第二の手紙は、コリントの教会がパウロを非難攻撃するようになったのに対して、一つ一つ弁明し、いま一度主の教会に回復しようとしたものである。

コリントの人々の問いは、パウロの言葉が真実にキリストにあって語られたものであるか否かにあった。
それが神から出たものか、パウロのものなのかと問題にしたことは、それだけ彼の言葉に真剣に対していたということである。
だからパウロも、真剣に真実をこめて語った。

だれでも、痛くもかゆくもない言葉を受け取る場合は、それが神の言葉であろうが人の言葉であろうが気にはしない。
しかし、自分にあれかこれかを求めて迫ってくる言葉であれば、真剣にならざるをえない。

だから私たち牧師も、ほんとうに神が自分に語られたことを語らなければならない。
自分の意見を語るのであれば、説教者ではなく、解説者になってしまう。

マルタは兄弟ラザロの死のおり、イエスに「あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と言ったが、復活の命は「存じる」(知る)ことではない。
復活の命は知るのではなく、信じ生かされなければならないのである。

このマルタの言葉に対してイエスは、「わたしはよみがえりであり、命である。
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
あなたはこれを信じるか」と逆に問われた。

「存じる」ではなく「信じる」である。

大事なことは、その言葉を神の言葉として信じ、選び取るか否かであり、二股をかけるのはゆるされないのである。
この意味で、信仰はパスカルが言ったように「賭け」とも言えよう。
そこまでいかないから、私たちの信仰には、飛躍もなければ、力もなく、命もないのである。

自分が信仰に関わろうとしない生き方、傍観者のような生涯は、信仰者として生きるための迫害は少ないだろうが、また恵みも受けない世界である。

しかし弱さに泣き、そこで神に近づくとき、また聖書の言葉を自分のためのものとして受け入れるときに、人の心に思い浮かびもしなかった喜びと恵みに満たされ、生かされている確信が与えられるのである。

自分との関わりなしで見るキリストは弱く、結局は人間の力で十字架につけられ、この世の力や常識で倒されてしまうものに見える。
この世の君のほうが強力に見える。

しかし、ハレルヤコーラスで歌われるように、「彼こそ王の王。彼こそ君の君」なのである。

見ばえのしない僕の姿をとっておられるイエスに、厳しい現実の中で私のすべてをかけていくのは愚かとも思える。
しかし私たちは、この愚かさにすべてをかけていくのである。

God Bless You!!


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