2021年7月19日(月)の手紙

2021年7月19日(月)


『この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』コリント人への手紙第二9章12節


第8章と第9章には献金についてのすすめ、配慮が記されてある。
この援助によって、エルサレム教会と異邦人教会とのみぞが埋められること、さらに両教会の一致により、福音が少しでも多くの人へ伝わることをパウロは願っていた。

福音がどんなに高等な理論として説かれても、実際の生活に生きてこなければ福音ではない。
私たちはこの暗い世界で福音に照らされ、光の中を歩み始めた。

光の中を歩むとは、愛することである。
「兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない」。

パウロは光の中を歩み、この援助の業で兄弟を愛したのである。

6節に有名な、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」との言葉がある。
御心にかなってすることは、すべてこのとおりだと言う。

献金もそうである。
しかし、注意しなければならないのは、「さあ、たくさん献金してください。
そうしたら、神様からたくさんの報いがあります」と説く牧師がいることである。

それでは、資本を投入して利潤を得る企業の活動と同じである。
献金とは目的のためにするのではなく、献金自体が目的なのだ。
もうすでに多くのものをいただいたことに対する感謝のしるしなのである。

私は、献金は一つの管だと思う。
神が多くのものを与えようとされても、細い管ではいただけない。
太い管ならば、神はあふれさせてくださる。
献金は神の祝福を受ける条件ではなく、神と自分とを連結する管なのである。

「神は喜んで施す人を愛して下さる」のであり、額の多少ではなく、喜んでささげるか否かが大事なのである。

12節以下には、献金援助のすばらしい祝福が記されている。
「神に対する多くの感謝によってますます豊かになる」という祝福。
互いに祈り合い、交わりを深めていくという具体的な祝福。
それらがすべて、神の栄光に帰せられる。

私たちが管からいただくのは、この祝福なのである。

ところで、献金と募金との混同は避けたいものである。
クリスマス献金のときなどに、牧師に、社会事業に、教会学校の先生に何々をすると言ってすすめる人がいるが、それは募金であって、献金ではない。

クリスマス献金とは、イエス様の誕生への感謝であり、それが何に使われるかは関係のないことである。
あのことのためにこれぐらい出そうというのは募金である。

このように、募金と献金がはっきりしないところでは、献金は信仰の業ではなく、祝福もない。
献金は、あふれるばかりの神の恵みに対する感謝であり、それが何に使われるかは神の御心なのである。

God Bless You!!


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