2021年7月17日(土)
『神をおそれて全く清くなろうではないか。』コリント人への手紙第二7章1節
冒頭に、「きよめ」の事柄が出てくる。
これが不品行にけがれたコリント教会にあてられたものであることを差し引いても、私たちはこの「きよめ」をどう受け取るべきだろうか。
「自分をきよめ」「全く清く」とあるが、それは信者として生活するのに要求されているから、私たちの心を満足させるから、清く生きるのではない。
神から贖われた者として、神の愛にふさわしく生きようとするとき、現実に清く生かされるのである。
しかしこの生き方は、世の人から必ずしも受け入れられない。
内村鑑三の不敬事件も、その一例である。
国家意識が台頭しつつあるとき、彼は御真影に敬礼しなかった。
ごうごうたる非難を浴びたが、彼は特別なことを意識したり、天皇への反感からそれをしたのではなかった。
「あの瞬間、私に敬礼をいなませたものは、拒否ではなく、実はためらいと良心のとがめだったのです」と彼は言った。
信仰の良心に従ったのだ。
また、村本一生という人が太平洋戦争中、兵役を拒否した。
日本にもそんな人がいたのかと、戦後注目されだしたとき、彼は「どうか、かまわずにほっといてください。
私はただ、神の前で良心に従っただけです。
自負も感慨もありません」と語った。
信仰に立っていただけだとの言葉に、実に重みが感じられる。
彼らは国家反逆への迫害というより、信仰への迫害として受け取ったのである。
このように、信仰生活は神の恵みにこたえていくことである。
パウロの「全く清くなろうではないか」も、なれるかなれないかではなく、神が私たちにしてくださったことにこたえていこうということなのである。
5節は、非常に心ひかれる箇所である。
パウロはえらそうに言うかと思えば、グチめいたことも言う。
外には戦い、内には恐れ。
しかしパウロは、その弱い自分が主の恵みに依り頼んで生きていくことを語るのである。
何かあると恐れ、何かあると喜ぶような人間が、ひとたびキリストによって立つとき、まったく変えられる。
ここに信仰のすばらしさがある。
信仰は毎日毎日いただかなければならないものであり、同一のものをじっと持続するのではない。
日々新しくされるのである。
毎日毎日、きょう生まれた赤子のように霊の父を慕い求めていくことで、信仰生活は保たれる。
一年は365日の積み重ねであり、一年という束があるわけではない。
立派な一年、立派な生涯を送ろうと思うなら、きょうを立派に生きなければならない。
一日はまたいまの積み重ねであるが、いまを立派に生きるとは、完全にということではなく、失敗しても常に責任を負ってくださるイエスに、さらに依り頼んで生きることである。
失敗しても、イエスが全部負ってくださるとの安心のもとに生き抜くのが、立派に生きることなのである。
God Bless You!!
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