2021年7月11日(日)の手紙

2021年7月11日(日)


『キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた。キリストによって満ちあふれている。』コリント人への手紙第二1章5節


コリントの教会は、キリストのからだなどと呼ばれるにはほど遠い問題をはらんだ教会であった。
パウロは、問題解決のために再三教会を訪問しているし、現在の二つの手紙以外にも書き送っていると言われる。
しかも彼自身、冷静にではなく感情をむき出しにした激烈な言葉を使い、訓告している。

このような手紙を後世への証しとして残され、用いられた神の御旨は、はかりがたく大きなものではないだろうか。
神は模範的な教会を用いられたのではなく、このコリントの教会のような、いわば劣等生のような教会を用いられた。

私たち劣った者一人一人に対しても同様である。
私たちは自己の弱さ、つまらなさに泣くことがあるだろう。
しかしそのようなときこそ、私たちが生きているのでなく、神に生かされ、用いられているのだと信じることである。

私が仮に三つしかできなくてもよい。
神がお用いになるときには、三も十も結局同じになってしまう。
神は一にも十にも百にも、無限大をプラスしてくださるのだから、答えは同じなのである。

だから、三だけしかできないことを恥じる必要はない。
持てるものを、全力をあげて出し尽くしていくところに、神の働きがあらわれるのである。

聖書には「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り……」と記されている。
持てるものをすべて、弟子たちは渡した。
そして主は、五千人の人を満腹させたのである。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」。

この祈りから第二の手紙は始まる。
この手紙の特色は、慰めの神ということである。

パウロが心血を注いで牧したコリントの教会は、彼からそむいた。
なんでもない人が反対しても、さほど気にならないだろう。
しかし愛し育てた者からそむかれることは、どうにもゆるしがたく、つらく悲しいことである。

どこにも慰めを求められない孤独の中で、パウロは慰めに満ちた神を知った。
慰め主イエスを知ったのである。

3節から7節まで繰り返される慰めという語、これだけ見ても、彼がどんなに神から慰められていたかがわかる。

私たちも、できるだけ一人ではありたくないと願う。
多くの人に理解され、愛される生活を、友を求める。

しかし、友に近づけば近づくほど、自分と違うことを感じるのではないだろうか。
近づけば近づくほど自分との差を感じ、私と同じだとか、ほんとうに頼れる人は見いだせない。
自分は一人ぼっちなのである。

しかし、神の慰めとは、神が共にいてくださることである。

ある牧師は「インマヌエル・アーメン」と日夜唱えたという。
「インマヌエル」とは「神われらと共にいます」との意味である。
ほんとうにすばらしい言葉である。

God Bless You!!


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