2021年7月10日(土)
『信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。』コリント人への手紙第一16章13節
パウロの手紙は、いつも牧会者らしいこまかい配慮で締めくくられている。
はじめにエルサレム教会への献金について語っているが、ここに彼の人柄が示される。
パウロはエルサレム教会との一致、交わりを常に配慮した。
すなわちエルサレム教会から霊的な賜物を与えられたのに対し、異邦人教会はこの世的なものをもって感謝をあらわしていく。
このような行為を通して教会が一つとなるのを願ったのである。
「目をさましていなさい。
信仰に立ちなさい。
男らしく、強くあってほしい。
いっさいのことを、愛をもって行いなさい」。
このままで説明する余地もないほどだが、パウロはコリント教会に、主がどんな課題を与えられるか、目を開いて、力強く信仰の愛の原則に従って解決せよと言っている
私たちがこの世で信仰生活に立つとき、さまざまな困難があり、世の人の賛成もない。
その中で殺然として進むのは容易ではない。
民主主義の欠点の一つは、すべてが満場一致で決められ、満場一致で賛成されたことは真理であるかのように考えられることである。
そこでは真理を問うのではなしに、賛成が問われるからである。
このような中で、自分だけの道を、信仰者としての道を歩むことが、いま問われているのである。
「男らしく、強く」とは、みんなの賛成の上に立ってイエスを信じるのではなく、神から自分に示されたものを信じていくことである。
みんなが賛成し、みんなが理解してくれたようなものを求めていっても信仰は与えられない。
「私は信ずる」と言えば、他の信じない人からは独断的に見えるかもしれない。
しかし、他人から影響されずに自分に与えられたものを持ち続けるのが、この「男らしく、強く」である。
教会では、他への配慮ということがよく言われる。
しかし、私たちの陥りやすい弱さは、配慮することがいつの間にか影響されてしまうことである。
配慮と影響とは根本的に違う。
周りの人への配慮を怠ってはならない。
それが「いっさいのことを、愛をもって行いなさい」なのである。
パウロは最後を、「主を愛さない者があれば、のろわれよ。
マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」で結ぶ。
私たちの信仰の究極は、この主の再臨である。
この世界の矛盾、悲しみ、苦悩は、どんな理想的な政治が行われても、どんな偉人が出ても、いやすことはできない。
しかし、これらいっさいの苦しみが取り除かれる時が来る。
それが主の再臨である。
そのとき主は、私たちの涙をぬぐわれ、愛で満たしてくださる。
主の祈りの「御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」とは、再臨に対する祈りである。
God Bless You!!
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