2021年6月28日(月)の手紙

2021年6月28日(月)


『管理者に要求されているのは、忠実であることである。』コリント人への手紙第一4章2節


第4章では伝道者のあり方が厳しく求められる。

「忠実である」とは、ただ言われたことを実行するだけではなく、そこに秘められた意味、目的を正しくくみ取り、それを生かしていくことにほかならない。

マタイ25章の譬えがそれである。
5タラント、2タラントを預けられた僕は、それを働かせてふやした。

なぜ主人が自分にタラントを預けたかを考えたからである。
商売をせよという主人の心を見抜いて、それを働かせたのである。

ところが、1タラントの僕の場合、何のためかを考えもせず地中に埋めておいた。
彼は使い込みなどの不正はせず、元金はちゃんと返している。
それなのに「悪い怠惰な僕よ」としかられるのだ。
それは主人の秘められた意志をくみ取らなかったからである。

今日私たちがクリスチャンであるのも、信仰というタラントを預けられたということである。
それをただ自分の中に隠しておいて、私はクリスチャンとして一生を過ごしたと言っても、また、だれ一人にも伝道しないままで礼拝出席をしたというだけでは、ほんとうの忠実ではない。

いまの世の中で、私の家庭で、私がクリスチャンにされたのはどんな意味があるのか。
神があの人にではなく、この私に信仰をお与えくださったのは、私が選ばれたのはどうしてなのかを求めていくことが、ほんとうの忠実なのである。

パウロはさらに5節で「先走りをしてさばいてはいけない」と、人間の心中に巣くっているものを語る。

私たちは人を裁くことが好きである。
「あの人はどうもおかしい」と言い、自分のおかしさは棚に上げ、自分を正しい者と思う。
パウロはそういうことは神がなさることだと言う。

しかし、神は人間のようには裁かれない。
神は私どもを愛され、まことに忍耐し続けられるのだ。

預言者のヨナがニネベの町に遣わされ、この町の滅亡を告げた。
だが、ニネベはそのままだった。
彼は自分の言葉のようにならなかったことを恥じ、怒って神に文句をつけさえした。

ヨナの小屋のそばに神が「とうごま」を備えてくださると、彼は暑い日ざしを避けられると喜んだ。
ところが、虫のため一夜にしてそれが枯れると彼は暑さのために弱り果て、怒って狂い死にしそうだと叫んだ。

そのとき神は、とうごま一本さえおまえは惜しんでいる、まして、わたしはこの20万の人をどうして惜しまずにいられようかと言われた。
神がすぐ裁かれないのは、神の愛がどんなに深いかを示すためである。

悪い者が大手を振って生きている現状を見ると、つい私たちの裁きが先立ってしまう。
しかし神は一人も滅びることを望まれず、悔い改めて生きることをこそ切望まれるのだ。
裁きのおそさは、それだけ神が忍耐を示しておられるからにほかならない。

God Bless You!!


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