2021年5月29日(土)
『この町には、わたしの民が大ぜいいる。』使徒行伝18章10節
コリントはギリシヤ半島の突き出たところにあり、地中海を航行する船には便利な中継地点であった。
そこは港町であり、人の出入りでにぎわっていた。
そのため道徳が乱れ、コリント人という名前はだらしない人間の代名詞であった。
コリント人への手紙を見ると、今日の私たちにも考えられないような問題があったことは明らかである。
しかし、そういうところに福音が宣べ伝えられ、教会が建設され、コリント人への手紙が書かれ、それが残された。
よい心がけの人々が恵みを世に残す、という私たちの常識に反する神の憐れみの証しである。
パウロはコリントで、アクラとプリスキラとに出会った。
パウロは二人の家に住み込み、いっしょに仕事をしながら伝道したが、シラスとテモテがマケドニヤから下ってくると、御言葉を伝えることに専念した。
しかし、コリントのユダヤ人たちはパウロに反対し、ののしり続けた。
パウロは、これでは伝道できないと思い、「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。
わたしには責任がない。
今からわたしは異邦人の方に行く」と言って、異邦人伝道に転じた。
パウロは「わたしには責任がない」と言ったが、まさにユダヤ人を信仰に導く責任はパウロにはなかった。
福音を語ることこそがパウロの青任である。
あれだけ情熱を持って福音を説いたパウロが、受け入れようとしない人々に、あなたがたがその責任を負いなさい、私は受け入れる人のところに行くと言ったのは、一見冷たく見えるが、伝道する者の正しいあり方であると思う。
愛を持ってその人のために心を尽くさねばならないし、その人が自分の責任に気づくように心を配るべきではある。
しかし究極において福音を信じるかどうかの責任は、その人にある。
異邦人はパウロの伝える福音を受け入れた。
ところがパウロの腰は落ち着いていなかったと見え、「恐れるな。
語りつづけよ、黙っているな。
あなたには、わたしがついている。
……この町には、わたしの民が大ぜいいる」と主から言われた。
コリント人たちはこの世の富や、偶像礼拝や、肉欲で退廃していた。
その人々に対して主は「わたしの民」と言われたのだ。
私たちはすべての人を、キリストがご自身の血を流してまで贖いとられた人という目で見ていかねばならない。
そのとき、この人も神の民であると考えることができる。
そして、なんとかそのことに気づいてもらいたいという願いが起こる。
それが福音を語ろうとする動機となる。
あの人は少し偏っているとか、あの人はこの世のことに夢中になっているという目で人を見てはならない。
神の側から見ていくのである。
God Bless You!!
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