2021年5月22日(土)
『夢心地になって幻を見た。』使徒行伝11章5節
異邦人たちが神の御言葉を受け入れた出来事がエルサレムの教会に伝わったときの記事である。
ユダヤ人から見ると、異邦人は捨てられた民であり、神の救いからもれている人たちである。
もし彼らに救いがあるとするならば、まずユダヤ人になり、ユダヤ人の律法を守らねばならない。
そう考えていたユダヤ人にとって、異邦人が異邦人のままで神の言葉を受け入れ、聖霊が彼らに下ったということは、あってはならないことであった。
しかし、そういうことが起こったのである。
神は自由に御業をなさる。
私たちはその御業に従うのであり、そこに信仰がある。
人間に理解できない十字架の出来事を、神がしてくださった。
その十字架のイエスを、神の子と信じていくのである。
この場合も、異邦人が異邦人のままで救われるというようなことはないとユダヤ人は思っていた。
神はその常識を破られた。
ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を重んじる者たちが彼をとがめた。
ペテロは彼らに対して「順序正しく説明」した。
ペテロは夢心地になって幻を見た。
その幻がペテロの常識やわくを超えさせたというのである。
ペテロは幻を見た。
それを夢心地で見た、と言う。
夢心地なら消そうと思えばいつでも消せる。
しかしペテロはそれを消さなかった。
不確かなものをしっかり受け取った。
神の迫りをこの世のものより確かなものとして受け取る姿勢がそこにある。
聖書を通して聞いていること、それが私たちの幻なのである。
私たちはそれを消す。
不確かだと言って消してしまう。
しかし夢心地で聞く神のメッセージをこそ聞かねばならない。
神の使信を最優先させるのである。
それが信仰である。
最優先どころか最後尾に回し、あれこれをして時間が余ったらそれをしようかと言う。
それでは何も始まらない。
私に送られてくる聖書の言葉がたいせつなものであると思わないかぎり、すべては常識の世界で消滅してしまうのだ。
夢心地で見た幻に従うなら、ペテロは当時の人たちから非難され、仲間はずれにされることは目に見えていた。
しかしその常識を彼は超えた。
夢心地で見た幻に従った。
この姿勢こそたいせつなものである。
「このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか」。
神のなさったことをそのまま認めるべきではないか、というペテロの論理である。
神のなさったことを自分の常識や、いままでのしきたりで判断するのではない。
キリスト教信仰は、神が起こされた事件に根ざしている。
イエスが生まれ、十字架につき、復活され、聖霊が下った。
みな事件である。
私たちはそれをそのまま受け入れるのである。
God Bless You!!
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