2021年5月20日(木)の手紙

2021年5月20日(木)


『そこでアナニヤは、出かけて行って……。』使徒行伝9章17節


第9章にはまずパウロの回心の記事がある。
彼の信仰、伝道の原点は、このダマスコ途上の経験にある。
キリスト教徒を迫害してきたサウロが、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との声を聞いた。

「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」とパウロは言っている。
ダマスコ途上の経験はパウロにとって実に大きかった。
福音とはそういうものだと思う。

私たちの心に、なにかかたいものがあったり、自分というものがとけてなくなっていないのは、太陽の当たっていない霜柱のように、キリストの光が当たっていないからである。

神は怒り狂っているサウロに、そのような一つの聖なる経験をさせた。
彼は目が見えなくなる。
そして、そこにアナニヤがいた。

アナニヤは、神からすでにキリスト信者として召されていた。
彼はユダヤにいられなくなり、ダマスコまで逃げていたのかもしれない。
そのアナニヤに、神は、迫害を加えようとやってくるサウロのところへ行けと言われた。

しかしアナニヤは、「彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」と答えた。

サウロのところへ行けば、ステパノのように打ち殺されるかもしれない、そんなむちゃなことを言われるのですかと抗議したのである。
その彼に主は、行け、そのご用をするためにおまえを一足先に召したのだと言われた。

クリスチャンが先に召された者であるという意味は、これなのである。
私たちがいないなら、どんな神の業も実を結べない。

主は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われた。
ぶどうの木は枝なしに実を結ぶことはできない。
神ご自身の御業が実を結ぶためには、先に召された者の忠実という一つの行為が、ぜひとも必要なのである。

サウロがパウロとして生まれてくるために、アナニヤは選ばれていた。
神の御業があの時代に大きな実を結ぶために、選ばれていたのである。

アナニヤはその神の言葉を聞いて、人間の判断では悲劇に終わると見えたサウロ訪問をした。
一人の人が生まれてくるのには、このように多くの人の祈りや、信仰や、決断が伴っているのである。

サウロはキリストの僕となり、神の恵みとイエスがキリストであることを語ったのち、エルサレムに行った。
そのとき、教会の人たちは彼を信じなかった。
しかしここでもバルナバが仲介の労をとってくれた。

私たちの信仰も、いくら育ててくださる神がおられても、植えたり、水を注いだり、肥料を与えてくれる人たちがいなかったら、実を結ぶことができない。

私たちがキリスト信者となったのにも、深い神のご計画があってのことである。
この神の召しの栄光を忘れてはならない。

God Bless You!!


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