2021年4月2日(金)の手紙

2021年4月2日(金)


『弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し……。』ルカによる福音書6章13節


安息日は休むためにあるのではなくて、休むことによって神の栄光をあらわすためにある。
その日、神の言葉を聞き、神の前で礼拝をささげる。
そういう生活をするために、この日は何もしてはならないと決められていた。

ところがその目的を忘れて、安息日を守ることが目的になってしまった。
これは宗教が陥る形式主義であるが、形式は真実なものへのひとつの手段、方法にすぎない。

だから手段はいろいろあり、目的のためには、手段は不動なものではない。
それを誤って、手段を目的のようにしてしまうときに、いろいろの問題が起きてくる。
イエスはそれを二つの事柄を通して教えられた。

さて、「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた」。
何のためにイエスは夜を徹して祈られたか。
それは12人の弟子を選ぶためであった。

その一人一人が神から遣わされた者として、その務めについていくためには、イエスのこの夜を徹しての祈りが必要であったからである。

マルコは御心にかなった者たちを集められたと書いているが、弟子たちが神の御心にかなう者とせられるためには、イエスの祈りが必要であった。

私たちが今日キリスト信者として、恵まれた生活をしているのも、背後にイエス・キリストの祈りがあることを忘れてはならない。
その祈りがなければ神の言葉を聞くことも、信じることもできない。

イエスの祈りに支えられてはじめて弟子たちは、使徒となることができたのだ。
またイエスの祈りが今日なおも続けられ、私たちはキリスト者として生きることができるのである。

私たちが今日、キリスト者として立たされている背後に深い神の愛、十字架とそれに伴う祈りがあるとすれば、自分の勝手気ままに信仰を捨てたりしてはならないと思う。

私はよく誕生祝福のカードに、神に選ばれた者として、自分をたいせつにしなさいと書く。
私たちがキリスト信者として忘れてはならないのは、神が必要とされて私が選ばれたということである。
私がどのような人間かということより、神に選ばれたことを忘れてはならない。

God Bless You!!


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