2021年4月10日(土)の手紙

2021年4月10日(土)


『自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。』ルカによる福音書14章27節


イエスが安息日にパリサイ人の家で、水腫をわずらっている人をいやされたとき、自分の子どもが井戸に落ち込んだとき安息日であるからといってほうっておくか、急いで子どもを助けるではないかと言われた。

あなたがたは律法を守っているが、律法は神の御心に添って守っていくものであり、神の栄光のための律法である。
神の栄光を抜きにした律法は、のろわれるべきであることを示された。

私たちはときどき、これは神の言葉だ、聖書の言葉だと言いながら、その受け止め方になってくると、しばしば大きなまちがいを犯すことがある。
神の御霊に導かれているとき、神の言葉は力を発揮するが、悪魔に導かれているときは自己中心的になり、これほど危険なものはない。

悪魔はイエスを聖なる都へ連れていって挑戦したように、私たちを聖なるところへ立たせることもできるのだ。
大事なのはだれに導かれているかである。
導き手によっては、神の言葉も凶器になりうることを忘れてはならない。

律法は神が中心に、神の栄光のために与えられているものである。
自分中心に神の律法を用いてはならない。

「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」。

主の弟子になるには、捨てなければならない。

私たちが聖書の言葉に従い、イエスのところへ行こうとするとき、それを邪魔するものが必ずある。
そんなことをしていたら自分の体が悪くなるとか、寿命が縮むというようなことを考えて、やっぱりやめておこうというようになり、神の言葉をただ聞き流してしまうことが多い。

イエスは、もう一度繰り返して「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」と言われた。

十字架とは死ぬことである。
自分の十字架を負うとは自分が死ぬことである。

人より楽な生活をしたいと思うようでは、イエスに従っていくことはできないのであって、一人が右へ、一人が左へ行けと言っても両方に従うことは不可能なのだ。
片方を捨てなければ、片方を手に入れることはできない。
私たちの主はイエスであり、イエスだけを信じるのである。

God Bless You!!


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