2021年3月18日(木)の手紙

2021年3月18日(木)


『その両耳に指をさし入れ……。』マルコによる福音書7章33節


1節から23節に、清め、けがれの問題が取り上げられている。

当時、イスラエル人は、自分の身がけがれることについては、非常に注意深く、また敏感であった。
特にユダヤの人たちは、外国人と交わることによって彼らからけがれを受けると考えていた。
たとえば町の外へ出ていけば、外国人といっしょに生活をすることになるから、そのけがれが自分に移ると考えていたのである。

そのような中、イエスからその信仰をほめられた人が、聖書には何人か出てくる。
その中のひとりは百卒長であり、もうひとりはスロ・フェニキヤの女である。
いずれも、ユダヤの人にとっては地獄に落ちる者のように思われていた外国人である。

ヨハネがバプテスマを授けたのは、他の宗教を信じている者がユダヤ教に改宗するためであったが、ユダヤ人は自分たちは選民であり、神から愛された者で、バプテスマを受ける必要がないと思っていた。
ヨハネはそうしたユダヤ人に対して、あなたたちは肉においてはイスラエルであるが、それは何の役にも立たない、あなたたちこそ最初に洗礼を受けなければならないと言った。

同じくイエスは、外国人の信仰をほめることによって、私たちこそがほんとうに悔い改めなければならない者であることを示されたのである。

さて、31節以下のところは、耳が聞こえず、舌の回らない人をいやされた記事である。
イエスは彼をいやされるのに、話せることではなく、聞くことに力を入れられた。
まず、耳に指を入れ、「エパタ」と言われたのは、聞けるようになれば話せるからである。

私たちもなんとかして喜び、感謝を語ることができるようになろうと思うが、それはまず、自分が聖書に聴くとき、耳が開かれ、自然と舌のもつれがとけ、語ることができるようになるのである。

私たちにとっては福音を話すことが神から与えられた務めであるが、その話す内容がなくなるときほど苦しいことはない。
しかし、話せない理由は耳が聞こえないからである。

キリスト教信者は、積極的に証しができなければならないと思う。
人前で話せない人があるが、それを乗り越えさせるものがなければならないと思う。
聖書に聴くことがなければならない。

神の言葉を聴き、深い感動を受けるとき、私たちは語らずにはおられないのである。

God Bless You!!


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