2021年3月14日(日)の手紙

2021年3月14日(日)


『その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。』マルコによる福音書3章5節


当時のイスラエルでは、安息日には緊急やむをえないこと以外はしてはならないということになっていた。
私たちも、この世の生活の中で神の御言葉に養われる困難さを思う。
静まることが大事であって、そのために安息日を守ることがたいせつであり、その点で、礼拝を守るためには、緊急やむをえないこと以外はしないということは信仰生活の知恵である。

しかし、そのことが一度目的となってしまうと、それは大変大きな問題をはらむことになる。
安息日には仕事をしないことを目的とする、すなわち律法学者たちは、安息日に仕事をしないことが、神に喜ばれることであると考えたのである。

本当は、神は安息日に仕事をするなと言われたのではない。
神を礼拝するために仕事をしないということ、それは決して目的ではなく、一つの手段である。
大事なことは、主を礼拝することであり、仕事をしないことではない。

手段の目的化ということは、宗教生活において起こる最も大きい誘惑である。
私たちは、気をつけないといつもこの手段の目的化という誘惑に陥り、宗教生活が目的となってしまう。

昔は禁酒禁煙がキリスト信者の条件のように考えられ、酒を飲むから教会へ行けないなどということが言われたものである。
それらは何も信仰と結びついているものではない。
ただ信仰生活をしていくことの条件、手段としては尊いものである。

しかし、それが目的となってしまっては、意味のないことになってしまう。

イエスは、安息日に手の不自由な人をいやされた。
わざわざ安息日でなくてもというのは、他人の考えで、本人の立場に立つなら、いまその手をいやすことこそが大事なことであった。

宗教生活に熱心であるあまり、非情になり、非人間的な宗教家になってしまうことは気をつけなければならないことである。

イエスは、安息日はいったいだれのためにあるのか、善を行い、神の御旨を行うためにあるのではないか、と言われたのである。
これこそが本当の安息日の目的にほかならない。

不自由な手を伸ばしなさいとイエスが言われたとき、彼は自分の手はいままで伸びなかったという自分の立場に固執せず、神の言葉には無から有を生ずる力があり、神には不可能なことはないと信じた。
それは自分を自分の立場ではなく、神の側においた、神の言葉に信頼しきった者の姿であった。

そのとき、彼の手は伸びたのである。
それが信仰である。

God Bless You!!


a:24 t:1 y:1