2021年3月11日(木)の手紙

2021年3月11日(木)


『ガリラヤに行け……。』マタイによる福音書28章10節


28章は復活の記事である。

「すると、大きな地震が起った」。
マグダラのマリヤたちは、だれが墓の石をどけてくれるだろうかと案じながら香料を塗るために墓のところへ来た。

そのとき、石は地震によってころがされた。
神は信じる者に対し、天を動かし、地をふるわせて道を備えてくださる。

もちろん私たちには天を動かすことも地をふるわすこともできない。
しかし神は、信仰生活をしていくうえで妨げとなる石を取り去ってくださるのである。

私たちは、いつもあの石があるからできませんと言う。
しかし、神がおられる世界なら、心配することはない。
聖書の言葉は、全能の神の働きたもうその状況の中で聞いていかなければ、信じることも、受け取ることもできない。

私たちは人間の限界の中で物事を考えようとするが、私たちの信仰は、神の支配される世界の中でなされることであることを忘れてはならない。

「恐れることはない」。
この言葉はよく出てくる。
私たちはイエスが復活されたことについて恐れを持っているだろうか。

当時見張り人たちは、恐ろしさのあまりふるえ上がり、死人のようになった。
実際弟子たちにとっても、心臓が止まるほど驚くべきことであっただろう。
そういう驚きが、私たちの信仰生活の中で忘れられているのではないか。

イエスの復活が、私たちにとっていちばん大きな事柄として、心臓が止まるほどの事件として実在しているなら、私たちの生活は変わってくると思う。

復活とは、新時代の到来である。
いままでは、すべてが死によって終わっていた。
なるほど私たちの世界は、死んだら終わりという世界だが、イエスが来られたことにより、新しい世界が到来したのだ。

死が終わりではない新しい世界が来たのに、そのことを知らないこの世の人と同じように生活していたのでは、復活は自分と少しもかかわりがないということになってしまう。

イエスは弟子たちにガリラヤに行けと言われた。
ガリラヤは、彼らにとって故郷である(ユダだけが違っていた)。
だから本来ならガリラヤに帰れと言うべきである。
それをなぜ「帰れ」と言わずに「行け」と言われたのか。

そこに私は、福音を携えた者の姿があると思う。

復活に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや帰る世界はなく「行く」世界だけである。
それが自分の家であろうと、自分の家に行くのである。
そこに新しく造られた者の面目がある。

復活の出来事を見た私たちにとって、ガリラヤへ行けと言われたイエスの言葉の中に、学ぶべき大きなものがあるのだ。

God Bless You!!


a:37 t:1 y:0