2020年7月26日(日)の手紙

2020年7月26日(日)


『あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。』申命記8章2節


あなたはこれまで考えてみたことがあるだろうか。
何を覚えているか、またそれをどんなふうに覚えているかについて自分には責任があることを。

また知的財産を運ぶ手段として育てるという意味だけでなく、霊的な目的のために、自分の記憶を訓練し教育しなければならないことを。

私たちの性質のすべての部分が必要とするただ一つのものは神であり、そのことは私たちの存在のほかの部分についてと同様、記憶の力についても当てはまる。

だから、過去が高潔で神聖なものとされ、私たちのために最高の結果とこの上なく祝福された実とを生み出すのは、過去を主と緊密に結びつけて、私たちが非難しようが認めようが、過去の中に私たち自身の能力が働いているのを見るだけではなく、むしろ過去の中で、神がご自身を私たちの経験に近づけて、私たちにふりかかるすべてのことを統制し方向づけてくださった大きな範囲を見るときである。

記憶を聖め、誤用や悪用から解放し、もっとも気高く最高の力にまで引き上げることは、記憶は神との接触のうちにあるべきであり、私たち一人ひとりにとっても過去は、その行いと真実によってあるがままに、つまり、神が私たちのためにしてくださったことの一つの長い周期と見なされなければならない、ということだ。

長くつながった一連の日々を振り返るときや、苦悶や歓喜を感じる興奮が過ぎ去ったときのほうが、活気に満ちた日々で人生がすべてせわしい喧噪の中にあるときよりもはっきりと主の臨在を見ることができる。

船の甲板にいる人々には後に残してきた街の美しさが、その街の狭い通りを突き進んでいたときよりも、よく見える。
また、遠く離れた海から目にする、遠ざかっていく家々の姿は幻であるかもしれない。

けれども私たちが見ている過去の眺めは、神がそれをすべて抱きかかえ、その中のすべてに働いてくださっているのを見るなら、決して幻想ではない。

卑劣な物事は隠され、狭い場所は見えなくなり、痛みと苦しみはすべて鎮められて、私たちはその只中にいたときよりも、悲しみと喜びの両方の意味と目的、祝福のようなものをもっと正しく見ることができるのである。

私たちの多くは十分に年を重ねて、若い日々には謎だった多くのことがわかるようになっている。
少なくとも収穫の始まりを見てきた。
それは、悲しみの鋤の刃と冬の風とが、私たちと、私たちが信頼できるほかの者たちのために用意していたものなのだ。

兄弟たちよ、受けたあわれみを思い出せ。
失ったものを心に留めよ。
そして「私たちの神、主がこの長年の間、荒野で私たちを歩ませられたすべての道のゆえに」、光と静けさだけでなく、闇と嵐も賛美の内に含めて感謝するように努めよう。

私たちの中には、病気がよくなってくると医者の請求額を払いしぶる患者のような人がいる。
私たちは恵みが過去のものになったとたんにそれを忘れてしまう。

そのうっとりするような甘さが味覚を満足させているあいだに恵みを楽しむだけで、楽しんでいるときに、それがどのお方の愛のおかげなのかを考えないからだ。

喜びも悲しみもすべて感謝のうちに入れて、「神のみわざを忘れず」にいようではないか。

アレクサンダー・マクラレン


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