2020年7月23日(木)の手紙

2020年7月23日(木)


『そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」』ルカの福音書24章32節


もしも愛が欠けていたら、外部への奉仕はキリストにとって何の価値があるだろうか。
もしも花嫁の、花婿に対する心が冷えきっていたら、花嫁が厳格に自分の務めを果たすことは、花婿にとって何の価値があるだろうか。

心のない教会はキリストのいない教会である。

愛する者たちよ、このことにしっかり目を向けよう。
自分たちの内に生けるキリストの臨在が実現しないかぎりは何事にも満足してはならない。

「真理である」お方の力が真理に仕えるために提示されないかぎり、どんなにすぐれた奉仕であってもこの欠けを埋めることはできないし、真理そのものもたましいを育むことはない。

このことに関してお互いに忠告し合う必要がある。
今は、燃える心よりも聞きたがりの耳のほうが一般的で、主よりも教師が求められるほうが多い時代だからだ。
このために、キリストがご自身の家である教会で、いわば取ってかわられる場合がよくあるのである。

私たちの集まりに主の臨在の力があるかどうかを見分けるのは難しくない。
無学な信仰者でも最高の教育を受けた者と同じくらい有能に、このことを確認できる。

エマオへ向かう途上の二人の弟子は無知であったが、心は正しい対象で占められていた。
キリストが、一緒に旅を続けている二人の対話の主題だった。
二人はキリストを愛しており、キリストを失い、悲しんでいた。

そしてまもなく、主ご自身が彼らの道連れとなった。
ご自分のことで彼らの心がいっぱいであることをご存じだったからだ。

彼らは主がおられることはほとんどわからなかったが、それを感じてはいた。
途中、彼らの心は内で燃えていたのである。
だから私たちも、キリストと、キリストが十字架にかかってくださったことで心が占められているなら、同じ経験をするだろう。

私たちとともに主がおられることを実感し、耳にしていたかもしれない奉仕に関する質問よりも、主とともにいられる祝福にたましいが満たされるのである。

もう一つ覚えておくべきことは、ある意味、私たちは常に教会にいるということだ。
私たちが神の教会の一部を形成するのは、主の御名によって集まるときだけではない。

公の場だけではなく私的な場でも、私たちは主がご自身の血で贖ってくださったそのからだに属しており、その結果、私たちの人生全体が神のすべての聖徒たちとの一致と常に関連しているべきだということである。

主の小さき者たちのためのパン屑


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