2020年6月9日(火)の手紙

2020年6月9日(火)


『兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。』コリント人への手紙3章1節~2節


御霊を求めて祈る人がいる。
御霊の光と喜びと力を得たいと願っているからだ。

ところが彼らの祈りは、恵みも力もほとんど増すことはできない。
なぜかというと、御霊を聖なる霊として正しく知ることも求めることもしていないからである。

御霊が鮮烈なまでに清浄であられること。
鋭く、さばきを下す光であられること。
御霊が人間の身体の行いと自己とをその意志と力と一緒に死なせ、ご自分の意思といのちとを父なる神にささげたイエスとの親交に導いてくださること。

このどれも、彼らは考えもしないのだ。

御霊は、彼らの内に権限をもって働くことができない。
彼らは御霊を 聖なる霊として、御霊の聖化によって受け入れようとはしないからだ。

時として御霊は、コリント人やガラテヤ人の間に「回復の時」が訪れると、恵みの贈り物や力あるみわざを携えて実際に来られることもあるが、その聖化の力はほとんど目立たない。
しかし、その聖化の力が認められ、受け入れられないかぎり、御霊の恵みの賜物は失われてしまう。

私たちにもたらされる御霊の賜物は、私たちの内に聖化する力をもたらす道を備える手段にすきない。
私たちはこの教えを心に留めなければならない。
すなわち、御霊の聖さを得たいと願えば願うほど御霊を得られる、ということだ。

御霊に満たされるということは、私たちにとってっ十分に聖いということでなければならないのである。

アンドリュー・マーレー


霊的な成長とは、聖霊が人間の心に主イエスを刻みこみ、イエスにその人の思いや言葉、行いに入っていただくことである。
ちょうど神が「石の板」に、おしえと命令を書きしるしたように。

それは失敗が皆無だということではない。
金もうけをしようとする人が常に成功するわけではないが、その人の目的がなんであるかは誰もが知っている。

それと同じように、主イエス・キリストはクリスチャンの人生の目的なのである。

ジョン・ダービー


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