2020年5月19日(火)の手紙

2020年5月19日(火)


『もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。』ヨハネの手紙第一1章9節


クリスチャンが罪を犯すと、神との親交は中断され、喜びは失われる。
それは自分で気づいて、父なる神のもとにおもむき、罪を告白するまで続く。

罪を告白すると、彼は自分が赦されたことを知る。
神のことばがヨハネの手紙第一で、そう断言しているからである。

常に思い起こすべきことは、神との関係の絆ほど強いものはなく、神との親交の絆ほどあわれみ深いものはない、ということだ。
地上のどんな力もこの関係を断ち切ることはできない。

だが不純な動機や無分別に口にした言葉は、そのつながりを壊してしまうのだ。

もしあなたが、自分が救われた喜びを失っていることに気がついたら、神の前にへりくだって喜びの失われた原因を見つけ、その罪を父なる神に言い表すことだ。
ただし、自分の安全と喜びとを決して混同してはならない。

この真理を次の例で説明してみよう。
ある満月の夜、月はいつもよりもっとまばゆく、銀色に輝いていた。
一人の男がさざ波一つない深い池を熱心に見つめていた。
水面に映った月を見ていたのだ。

男は友人に言った。
「今夜の月はなんて美しいのだろう!
きみはこれまでこんなに輝いている完全な満月を見たことがあるかい」。
すると友人はいきなり、その池に小石を投げ込んだ。

男は叫んだ。
「わあ、大変だ!月が砕けてしまったよ」。

「バカなことを言うなよ」。
友人は言った。
「ほら、見上げてみろよ!月はこれっぽっちも変わってないだろ。
変わったのは、月を映している池の状態だよ」。

この平易な例を実際にあてはめてみよう。

あなたの心がその池だ。
そこになんの邪悪なものがないとき、神はあなたの慰めと喜びとなるように、キリストの栄光と奇跡を明かしてくださる。

ところが、よこしまな動機を抱いたり、意識せずに悪口がもれたとたん、聖霊はあなたの心である池をかき乱しはじめる。
するとあなたの幸せな経験は千々に砕け、心は乱れ、不安でいっぱいになる。

それは、神のもとに出向いて自分の罪を言い表すまで続く。
罪を告白したとき初めて、あなたは神との親交の穏やかで幸せな喜びをふたたび見出すことができるのである。

ジョージ・カッティング


信徒たちよ、諸君はなんと罪を軽く考えていることだろう。
そうすることで少しずつ堕落していくかもしれないから、警戒したまえ。

罪は小さなことだろうか。
毒ではないのか。
その死に至る恐ろしさを誰が知っているだろう。

罪は小さなことだろうか。
「小狐」が「ぶどう畑」を荒らしてはいないか。

小さな打撃もたび重なれば、樫の大木を倒すのではないか。
雨だれは石を穿つのではないか。

罪は小さなことだろうか。
それは贖い主の頭をいばらの棘で締めあげ、主の心を刺し貫いた!
主に苦悶と苦悩と悲痛をこうむらせたのである。

もしも永遠の秤でどれほど小さな罪でも量ることができたら、諸君は、あたかも毒蛇から逃げるごとくにその罪から逃げ、悪がどれほど小さく見えても嫌悪するだろう。

もしもあらゆる罪を、救い主を十字架につけたものと見なすなら、それがどれほど罪深いものであるかがわかるはずだ。

我々自身の過ちについて言うなら、すべてを書きつけるには大きな石板が必要だろう。
だが我々は、過ちをどこにもっていけばいいのか、どうすれば克服できるのかを知っている。
そのことを神に感謝しようではないか。

チャールズ・スポルジョン


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